なないろのゆり - SS: あなたの存在

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SS: あなたの存在

鳴海をだいぶ長いこと待っていたのだろう、レイコの髪の毛には滴り落ちるほどの雨粒がまとわりついていた。
目が合って、何かをレイコが言いかけた瞬間に雨足は急激に強くなり、傘を持たないレイコの頭上を打ち付けるように次の言葉を遮った。
鳴海は反射的に持っていた傘を相手側に傾けようとしたが、レイコは握った柄の部分に手のひらを重ねるようにしてそれを制すると、冷え切った頬をゆっくり近づけて触れ合わせた。

何かを言わなければと思いつつも言葉が見つからず、振り返ったレイコが黙って雨の中に消えていくのを鳴海はだた見送った。
偶然に前方から通りかかった車のキセノンのライトが青白い光を斜めから差し込ませてきて、雨の粒に幾重も反射してにじんだレイコの影を幾千もの色濃い糸にしてたなびかせ、鳴海に投げかけるようにして走り去った。

*****

初めて会ったときから、良くない兆候は感じていた。
言い方を変えれば、良くないことになるだろうとその時点からわかっていたのかもしれなかった。

鳴海の働く部署に新しいシステムが導入されることになって、その運用指導と保守をするためにメーカーから派遣されてきたのが京ヶ瀬レイコその人だった。
上司からシステムの担当を申し付けられた鳴海が呼ばれるまま会議室の扉を開いたのが、最初に予感を感じた瞬間だった。
物腰も柔らかく、清潔感もある。説明もわかりやすくて話し方もユーモアがあっておもしろい。
社内の人間はみなレイコのことをとても高く評価して、中には「あんな美人と一緒に仕事できるんだった、自分が担当に立候補すればよかった」などと言い出す輩までいるくらいだった。

だけども理由ははっきりわからないものの、鳴海はレイコのことが苦手だった。
にっこりと微笑まれるたびになんとなくバツが悪いというか、素直に笑顔を返せない自分がいた。もちろん相手に何か非があるというわけでは決してないのだけれど、どこか気を許せないところがあるように思えて仕方がなかった。

それは後になって考えればきっと気を許せなかったのではなくて、気を許すのが怖かったのだと思う。

システムの導入が始まってしばらく経った頃、鳴海は急な仕事で遅くまで一人残業をすることになってしまった。課のみんなが帰ったあとコツコツとパソコンに向かって打ち込みをしていたのだが、突然画面におかしなメッセージが出始めた。
慌てて上司に電話をかけたところ、それはきっとシステムの不具合だからとレイコに電話をかけるように言われてしまった。
気が進まないとは思いつつも、名刺にあった携帯の番号にかけるとレイコは今近くにいるからとすぐに社まで来てくれた。

「大丈夫ですよ。致命的なエラーではありません。サーバー側のデータを修正すればすぐに直ります」
「良かった。私、てっきり自分が壊してしまったのかと思って」
「だいぶお疲れのようですね。まだこれからお仕事をなさるんですか?」
「いえ。さすがにもう帰ります。集中力も切れちゃったし」

そうですか、とレイコは気のせいか少し嬉しそうに微笑むと、エラーに対して応急的な処理をしてシャットダウンをかけた。背中越しにその動作を見ていた鳴海は、こんな夜分に急に呼び出したのに嫌な顔一つせず来てくれたレイコに対して、ものすごくすまないような気持ちになってきた。
もしかしたら口には出さないだけで自分がしてしまったごくつまらないミスのためにこうなったのかもしれないしと思うと、これまで若干避けるような仕草をしてしまってきたことが、ひどく申し訳ないことのようにも思えてきてしまった。

「あの、京ヶ瀬さん。もうお食事は済みましたか?」
「ええ、簡単にですが。山井さんはまだですよね」
「あ、いえ、その。もしまだなら呼び出してしまったこともあるし、ご一緒にどこかと思ったんですが…」

すっと立ち上がったレイコは、まっすぐに鳴海の正面から顔を見た。数センチ鳴海よりも高い身長だったが、見下ろされているとは全く感じなかった。

「でしたら、丁度いいお店を知っているんです。私も一度行ってみたいと思っていたところで。山井さんさえよろしければ、どうですか?」
「はい!じゃあ、そうしましょう」

二人が向かったのは女性客向けのダイニングバーで、ほの暗くされた照明に亜熱帯の異国を意識した植物や自然をあしらったオブジェが美しく映えて、会話まで少し日常を離れたもののような不思議な感覚さえした。
その雰囲気に飲まれたと言ってしまうと言い訳になってしまうが、その食事のあとレイコの家に行くことなっても鳴海は全く抵抗感を持たなかった。

きれいに片付いたレイコの部屋でもう少しだけ飲んで、ほろ酔いの頭でぼんやりと窓の外を見ていたところ、不意に鳴海はレイコにキスをされた。

一度触れた唇が離れて、それからもう一度近づいたときにはもう身体を拒否させようとするのも面倒になっていて、艶かしく相手の舌が唇の裏をなぞるのを、促すように腕で肩口を引き寄せたりもした。
じらすような仕草でブラウスのボタンをはずされ、柔らかなクッションに乗った腰に指先が下腹部を滑り降りていくと、自分でも自分がこんな声を出せるのかと思うほど色のあるため息を漏らしてしまった。

女性と経験があったわけではなかったが、願望も全くないわけでもなかったのだと思う。

だから、も、でも、も考えないでいるとレイコとこうして抱き合っているのはとても心地よくて、これまで持っていた羞恥心やプライドのためにしたことのなかった脚の開き方や腰の浮かせ方にも全く抵抗感を持たなかった。
重なった乳房の感触をもっと密着させるように首元に回した腕の力を強めると、自分の中に差し入れられた指の腹が微妙なところを擦り上げたのがわかって、思わずつま先が床をつかむように動いた。

数秒間、身体が痙攣をしたようになったあと急にぐったりと全身から力が抜けて、真横にいたレイコが頬にキスをしたのがわかった。

その後も何度か時間を空けては場所を移しながら抱き合って、うとうととしていた鳴海が目を覚ましたのは明け方近くになったベッドの中だった。

起き上がって部屋の中を見回すと、散乱した自分と相手の服があり、位置のずれたミニテーブルや少しめくれたカーペットが自分たちのしたことの証拠として残っていた。
隣では熟睡をしているのか身じろぎせずに身体をたたんでいるレイコがいて、整った顔に長い髪が少し乱れて覆いかかっている。それを直すために指先を相手の頬に触れさせると、鳴海は急に恥ずかしいような居たたまれない気持ちが湧き上がってきた。

そっとベッドを抜け出すと、床から自分の服だけをかき集めては急いで身にまとわせ、逃げ出すようにしてその部屋を後にした。
ちょうど最寄の駅は始発まで間もないくらいの時刻で、肌寒い空気の中フォームに電車が入って来るのを急く気持ちで待った。

ようやく到着した列車に乗り込もうとした瞬間、ふわりとした空気を感じて背後を振り返った。だけどもそこには何があるわけでもなく、ただ急に胸が高鳴っただけだった。
そしてそれが、その後ずっと後を引き続ける異変の始まりだった。

システムの運用も落ち着き、レイコが鳴海の社を訪れる回数はぐっと減ってきた。訪れても鳴海は何かと理由をつけて、可能な限り避けるようにした。どうしても会わなくてはいけないときもどうにかして二人だけにならないようにして、会話も一切個人的なことはしなかった。
レイコも逃げるようにいなくなったことから察していたのか、鳴海が避けようとしているのを読むように無理に会おうとしてくることはなかった。

あれはあの時の気持ちの迷いであって、お互い忘れた方がよい出来事なのだと鳴海は自分に言い聞かせた。自分だけでなく相手にも妙な責任感を持たれても困るし、口外さえしなければなかったことにもできると思い、周囲にも何事もないようにふるまい続けた。

ところが、そうしようとする鳴海の気持ちとは裏腹に、生活の中に妙な異変が入り込んでくるようになっていた。

仕事の合間。散歩の途中。同僚や友人と話をしている時。
隙を突くように、鳴海の気持ちが緩むたび「何か」がふわりと身体を包み込むような感触に襲われた。
あの日に見た花や、帰り道を照らしていた月や、部屋にあったお香の匂い。壁の色や扉の形や衣の擦れる音。
とにかくあの日を連想できる何もかもを感じるたび、鼓動が早くなるのだ。さらに気がゆるんでいるときなど、なぞられた唇や肌の動きまでが生々しく身体の中で再現されるようで、熱さえ感じるほどだ。

他の何をしていても、何を考えていても、一瞬の合間に「それ」は心に滑り込んでくる。
それはまるで常に背後に付回してる影が、鳴海が隙を見せるたびに柔らかい触手を伸ばして捕らえようとしてくるのにも似ていた。
いつかきっと消えるだろう。
そう思っているうちに1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎ、気がつけば半年にもなろうかというくらいになった。

だけど「影」は薄くはなってくれない。
その存在に若干慣れはしたものの、感覚はなくなるどころか時に強烈に押し寄せてくるかのようにも思える。
ある雨の休日、鳴海はそのことを考えながら外を歩いていた。

レイコのことを「好き」と呼ぶにはあまりにもいい加減な気持ちに思えた。
しばらく一緒に仕事をしていたとはいえ、相手の性格や素性などあまりにも知らなすぎた。お互いの気持ちを確かめるとか、駆け引きをするとかそういうことも一切なく、ただ気持ちの求めに従っただけの身体の関係だった。

「好き」とか「愛してる」というのはもう少し高尚な気持ちなはずで、相手の人間性とか考え方とかそういうところに惚れこむから持てる気持ちであるべきなのだ。
影のように自分につきまとう「それ」が抗いがたい自分の気持の作り上げた幻影であると、恥を捨てれば認めてしまうこともできる。

強烈に相手を求める気持ち。
それは自分の身体の衝動それ自体を認めることよりも、もしかしたら難しいことかもしれなかった。

うつむいて歩く足元に、差した傘の影に誰かの姿があった気がして顔を上げると、そこには一人の人が立っていた。
長いこと待っていたのだろう、長い髪はしっとりと水滴を吸って重くまとわりついている。
自分に向けられた悲しげな瞳のせいで、今頬を濡らしているのが雨なのか涙なのか判断できないくらいだった。

「京ヶ瀬さん」
「お久しぶり。元気でした?」

会社で話していたときにはハキハキとして自信に満ちていた声が、雨足に紛れて弱弱しく響く。鳴海は胸がぐっと詰まるようで、言葉を発すると同時に涙が出るんじゃないかとさえ思えた。

「ごめんなさい。あなたに、何かを言いたくて来たんだけど」

そこまで言ってレイコは言葉を詰まらせた。
鳴海は、傘を持つ自分の手が小さく震えるのを感じていた。

【Fin.】

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