———-2月3日金曜日 NY市警近くのバー、カウンター席にて
オリビアの携帯を切ったときに見せたうんざりした表情だけで、その会話の内容の大半は聞かなくてもわかる気がした。
どんなに嫌な報告であっても、仕事ではこういう顔は絶対にしない。
「この前の彼氏? なかなか頑張るのね」
言い訳を考えるよりも先にアレックスにつつかれて、オリビアはため息混じりに肩をすくめた。
「ちゃんと断ったつもりだったんだけど。変にプライドを刺激してしまったのかな」
「でなければ、やっぱりどうしてもあなたが欲しくなったか」
冗談はやめてよ、と言いながらもオリビアは口元に運んだグラス越しにアレックスの表情を探った。
いつものように超然と構えた態度でからかうように笑っている。
自分の方が年上のはずなのに、こうしてプライベートの席になると決まって受身一方になってしまうのがオリビアは不思議だった。
一緒に仕事をするようになってもう数年目になるだろうか。
それなりにお互いの私生活について話をするようにもなったが、正直まだこうして一緒にいても彼女のことを「理解した」というような気持ちにはなれない。
親しくなりかけたと思えた会話の途中で、ふっと突然に相手の気持ちを見失ってしまうような瞬間が、これまでたびたびあった。
あるいは、真理にせまりそうになるとはぐらかすような態度になるのは、裁判で日々議論して戦う検事という仕事柄の癖なのかもしれない。
はずした眼鏡の奥にある、ブルーの瞳が不意に自分を見据えたのがわかった。
オリビアは持っていたグラスをテーブルに置いて、「どうかした?」とアレックスに尋ねた。
「ううん。相変わらず恋愛が下手ね、と思って」
「そうね。でも、この先もうまくなれるって気があまりしないの」
「…簡単には、逃げ出せないものね」
「まあね…」
これまで何人かの男と付き合ってきたが、長続きするほどうまくいったことは一度もなかった。
性犯罪を扱う部署にいるがゆえに、仕事の話をすることができないこと。
自分がその性犯罪の結果に生を受けた存在であること。
トラウマやら葛藤やらいろいろな理由はつけられるが、やっぱり一番の問題は自分自身の心なのかもしれない。
オリビアはそんなふうに考えるようになっていた。
「アレックスはどうなの? 最近デートは?」
「それこそいい冗談ね。今日までどれくらい忙しかったか、あなたの方がわかっているはずじゃない」
今夜は裁判での勝利祝いだった。周囲も上司も絶対に無理と言われていた事件だったが、オリビアの必死の捜査とアレックスの機転で、直前まで不可能と思われていた予想判決を覆したのだ。
口には出していないが、連日の自分の無茶な提案に応えるため、アレックスが寝る間も惜しんで裁判の準備をしていてくれたことをオリビアは知っていた。
さっそく次の予定を入れようかな、と笑うアレックスに合わせてオリビアも少しだけ笑った。
「変なこと聞くみたいなんだけど、アレックス」
「何?」
「あなた、これまで本気で誰かのことを好きになったことってあった?」
一瞬きょとんと目を丸くして、それからやれやれという風に軽く首を振った。
「聞いてどうするの?」
「別に。ちょっと興味があったから。聞かせて」
自分で聞いておいてなんだが正直なところ、オリビアにはアレックスが本気で誰かを愛したことがあるようには思えなかった。
こと女性の性質というと物事—–特に好きになった異性に対して—–に執着しやすいものだが、中にはそれが薄いタイプもいる。
おそらく自分が同性といながら、ここまでさっぱりした気分で話せるのはアレックスがそういう性格だからでないかとオリビアは思った。
だけどもそれは、同時にひどく危うい感情でもある。
「いたわ。と、いうか…いる、のかも」
「それは今も、ってこと?」
「多分ね」
そう言ったアレックスが少し遠い目をしたのを見て、オリビアはちくりと胸に何か刺さるような感じがした。
喉が急に乾いて、目の前の自分のグラスを一気に飲み干した。
「どんな人? 付き合いは長いの?」
「興味津々ね。でもそんなにおもしろい話じゃないのよ」
詰め寄ったオリビアをいなすように、いたずらっぽくアレックスはグラスを振る。
「地方検事補になってまだ間もない頃にね、大先輩の開いた勉強会である人と出会ったの。私より年下だったけど、すごく自己主張のしっかりした人だった。若いのにすごく勉強熱心で、参加した先輩よりも判例に詳しいくらいでね」
「それって、同じ検事補の仕事をしてる人ってこと?」
肯定をするようにアレックスは口元だけを微笑ませた。
「その会の中で題材になった事件について見解が分かれてね、私はその人と真っ向から論戦をしたってわけ。—–結果は引き分けだったけど。会がひけたあとでその人にもう少し話さないかって誘われて、それが付き合いのはじまり。親しくなるのに、それほど時間はかからなかったわ」
「今は? 今付き合ってないなら、どうして別れたの?」
「別れたっていうよりも、きっと最初から付き合ってなかったのよ」
「でも好きだったんでしょう?」
「少し『好き』の種類が違うの。その人と私はすごく似すぎていて、長続きはできないなとは思ってた」
「嫌いにも、なってない?」
「不思議なんだけどね。きっとこういうふうに思える人って、その人一人なんじゃないかしら」
そこまで言ったところで、話すぎたと思ったのかアレックスは「ここまでにしましょう」とオリビアの手を軽く叩いた。
「そろそろ帰らない? 明日も仕事でしょう」
「そうね」
二人は席を立つと、まだ寒い路地へと出た。
ゆっくりと歩道を歩きながら、オリビアは最後に質問をしようかどうかと考えた。
「遅いから車を拾うわね。あなたは?」
「私はすぐそこだから。歩くわ」
通りかかるタクシーに手を上げかけたアレックスの後姿に、一瞬だけうつむいてからオリビアは声をかけた。
「その人以外の人には、もう興味は持てないと思う?」
タイミング良く通りかかった車が目の前で停まり、アレックスは開いた扉に体を半分だけ入れた。
「どうかしらね。自分でもわからないわ」
「全く望みはないの?」
オリビアの不思議な言い回しに、アレックスがうつむいて微笑む。
「あるかもね。それじゃ」
車が走り去ったあと、オリビアは数歩歩いてそれから空を見上げた。