「魔女」のルーツは「産婆」から
今回も読書感想文です。
読んだ本は【狙われた身体 病と妖怪とジェンダー】(安井眞奈美著:平凡社)と、【魔女論 なぜ空を飛び、人を喰うか】(大和岩雄著:大和書房)の二冊です。
いずれも古くから言い伝えられている「妖怪」などの化け物や怪異の存在について、女性像がどのように投影されてきたかということをひもといていく内容となっています。
内容は非常に深いのでこのブログ内でまとめるのは不可能ですので詳細については是非実際に書籍にあたってもらいたいところではあります。なのでここでは私が個人的に印象に残ったことやそこから何かを考えるきっかけになったことに絞り込んで紹介をしていきたいと思います。
しつこいようですが、これから書く内容よりももっと幅広い内容が本書には含まれておりますのでそのあたりは誤解されないようお願いします。
まず女性が妖怪や怪異のモチーフとして登場するときに、非常に大きく背景として用いられるのが「出産」に関することだというのが大きな特徴になっています。
日本の妖怪の中に「姑獲鳥(うぶめ)」というものがおりますが、こちらは文字通り「産女(うぶめ)」という言葉から発生したもので、日本だけでなく世界各地に同じような妖怪はいるものの基本的には「産婦が出産時に亡くなったことから化けた妖怪」とされています。(起源は中国であるとも言われていますが日本の書籍にも古くから記載があります)。
姑獲鳥は文字通りに「鳥」の姿をしており、夜に飛来して鳴くのですがその声がまるで赤子の鳴き声のようにも聞こえるのだそうです。
日本国内では「姑獲鳥」という妖怪はそれほど知名度が高いものではありませんが、そのモチーフは世界の「魔女」たちとかなり相違があり、はっきりと女性の姿をしている(同じ種類の妖怪の女性版ではなく)と明言されている妖怪の代表的存在となっています。
出産は、出血を伴うがゆえに穢れともみなされたため、出産中に亡くなった女性には出産の穢れと死の穢れという二重の穢れが生じ、死してなお危険な存在と捉えられた。それゆえ亡くなった妊産婦には、成仏を願って流れ灌頂を行ったり、「身二つ」と称して妊産婦の身体と胎児を分離してから埋葬したり、特殊な対処がなされた。そうしなければ妊産婦の霊は成仏できず、妖怪・姑獲鳥(産女)となって化けて出るとみなされたからある。
「狙われた身体 病と妖怪とジェンダー」安井眞奈美著 平凡社 P.101
注意をしたいのがこのときの目線はあくまでも男性であり、子どもを生む女性という存在を畏れの対象としながら同時に怪異性を含んだものという否定的な評価をしているという点です。
もう少し同書を引用していくと、
「フェミニズム論から考えれば、男性社会では「女」はいつも既に否定的にとらえられる「他者」である。そのため、怪しい女であればその存在は人間として認められず、人間界の外のもの、つまり妖怪、として考えられることになる」と指摘する。女性であるということが、既に妖怪になる素地を含んでいるということになる。
「狙われた身体 病と妖怪とジェンダー」 安井眞奈美著 平凡社 P.102 (傍線部は筆者)
とあります。
この男性目線からの「普通の女」と「異常な女」という区別が女性の体をもった妖怪を作り出したという説は日本だけでなく、主にヨーロッパで伝えられてきた「魔女」の概念にも深くつながっています。
西洋の魔女といえば夜な夜な箒にまたがって空を飛び、集会を開いたり怪しげな薬を作ったりといった姿を思い浮かべると思いますが、実はこの「魔女」はもともと産婆として女性の出産に立ち会っていた女性がモチーフになっていると言われています。
ウォーカーは、「箒はヘカテに仕えた巫女=産婆のシンボルであった」と書くが、『魔女の鉄槌』では「産婆ほどカトリックの信仰に害を与える者はいない」と書く。ヒルデ・シュメルツァーは『魔女現象』で、87のローマの助産婦の書に載る絵を「古代と中世の産婆」と説明し、産婆を魔女とみた理由について、いくつかの事例をあげる。
「魔女論 なぜ空を飛び、人を喰うか」大和岩雄著 大和書房 P.122
と前置きをして、その具体的な事例として「イエス・キリスト誕生の際に処女マリアの出産を疑ったこと」「死産とわかったときに聖職者が行う緊急洗礼を、その際に用いられる聖水に黴菌や錆が入っていてそれを胎児や女性の子宮内に入れると生命が危険であると拒否したこと」、さらには「教会が禁止した避妊と堕胎を行っていたこと」を挙げています。
現代の感覚でいくと「産婆」という存在は妊産婦の健康状態を把握して安心できる出産へ導く人という感じがしますが、過去の歴史では薬草や薬品を調合して避妊や堕胎を誘発させたり、死産した胎児や望まれずに生まれた子どもの処理などといった汚れ仕事までもを請け負っていました。
勘の良い方ならピンと来たかもしれませんが、この「薬草などを調合して避妊や堕胎を促す」という姿こそが現代にまで続く魔女像のモチーフになっており、さらに亡くなった胎児の処理をしているところなどからカエルの干物や蛇の抜け殻などを鍋に入れて煮込むといった姿につなげられています。
※詳しく説明すると長いのですが、この「カエル」「ヘビ」という生物も胎児の象徴であったり、女性の姿の象徴であったりと色々な歴史があったりします。
本来の魔女ならぬ産婆という存在は、生命を生み出すための重要な補助役であったと同時に、その生命を奪う役割も担っていました。
しかしながら上記のように後に世界を席巻するキリスト教的価値観においてその存在が嫌われたことと、日本の「姑獲鳥」同様に「異常な女=得体のしれない妖怪」という価値観が混ざり合って、功罪ともにあった「産婆」の「罪」の部分を大げさに取り上げて「魔女」と扱うようになったというのが結論であるようです。
同じく【魔女論 なぜ空を飛び、人を喰うか】の説明によれば、薬草や薬品を正しく扱う知識を持つ女性は「賢女」として重宝される一方、その調合に失敗して病人を死なせるようなことがあればたちまち「魔女」のレッテルを貼られるという、男性目線からの女性の扱いを説明しています。
言うなればその「賢さ」を持った女性そのものが男性からは怪異の存在であり、先に引用したように「女性であるということが、既に妖怪になる素地を含んでいるということになる。」と言えます。
日本の妖怪でも「山姥」など主に老婆の姿をした妖怪が各地に存在をしていますが、それぞれのストーリーを詳しくみていくと「最初は美女として男性に近づき、突然鬼のような形相となって襲ってきた」という流れが多いことに気が付きます。
これも男性目線かからは「美女」と「醜女(老婆)」という「賢女」と「魔女」のような善悪を二分する価値観があり、それらは同時に表裏一体で裏返るという恐怖感もまた表現されていると言えるでしょう。
本来の「女性らしさ」とは善悪いずれでもないもの
「魔女」にしろ「産婆」にしろ、女性への評価が男性目線であるという点はあるものの、歴史的な描かれ方を知ってそこから考えを進めていくとまた新しい「女性像」へのアプローチをしていくことができるのではないかとも思います。
近年のジェンダー意識の変化により、いわゆる「女らしさ」の押し付けが創作の世界においても問題視されるようになってきています。
創作物における「女性らしさ」の強調といえば、「頭が軽く、感情的で、ピンクを好み、胸やお尻など性的部分が過度に強調されており、家事が得意で、男性の補助や性的に見られることを喜ぶ」などといったことが挙げられます。
こうしたテンプレート化した「女性らしさ」を創作物として好む女性もいないわけではないでしょうが、現実として「女なんだからそうしろ」という圧力をかけられて嬉しく思う人は決して多くはないでしょう。
個人的にはそのような「女性らしさ」というのは別に「女」ではなく、単純に「使う人間から見た都合の良さ」が凝縮されたものなのではないかと思ったりします。
創作物において性別など関係なく読み手にとって都合の良い世界を描くのは当然のことなのでそこは否定しません。ただその「都合の良さ」が「女」という性別に凝縮されることに疑問を持っているだけです。
むしろ今思っているのは、創作物においてもっと「女らしさ」を描くのは「善悪両面を持ち、それが簡単に裏返る」という特製なのかもしれないなということです。
そのように言うとまるで女を描くときには必ず美女と鬼婆の両方にしないといけないかのようですが、そんな極端なことではなくて、世間的によいとされていることとそうではないこと、その境界を意識せずに曖昧に自分の気持を表現するということだと思っていたます。
逆に言えばそうした善悪の概念を個人的に超越した「賢さ」を感じる女性が登場するような創作物にこそ、私は「女性らしさ」を強く感じることができるのかなあと、そのように本を読んで思いました。
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