なぜ人は盗撮をするのか
前回のブログ記事で「セックス依存症」および「「小児性愛」という病――それは、愛ではない」という二冊について読書感想文を書いたのですが、今回も同じ著者である斉藤章佳氏の著書からの感想文です。
「男尊女卑依存症社会」(亜紀書房 2023年)と、「盗撮をやめられない男たち」(扶桑社 2021年)です。
ただし「男尊女卑依存症社会」の方については何か特定の疾病についての解説というよりも、著者の斉藤氏がこれまで仕事で携わってきた依存症患者たちとの関わりの中で感じた社会的構造をまとめたものなので、今回はあまり深くは触れないようにします。
個人的に色々と考えるきっかけになったのが「盗撮をやめられない男たち」の方で、特に「見る」ということについての心理について考えたことをまとめてみます。
まず最初に書籍内にある「盗撮をする人」の特徴や心理についてをざっくりとまとめてみます。
同じ著者の書籍に「男が痴漢になる理由」(イースト・プレス 2017年)があるのですが、痴漢と盗撮は犯人像が非常に似通っており、そこに至るまでの思考やなぜやめられなくなるのかという理由もだいたい同じなのだということです。
違いがあるとすれば痴漢よりも盗撮の方が初犯の年齢が若干低く10~20代からやっているという人の割合が高いということで、直接相手の体に接触する痴漢と違って「見る」だけなのだからと罪悪感が軽めにとられているというあたりなのだそうです。
「盗撮とは、相手に気づかれないように、日記を盗み見る行為なんです。その優越感は、日常生活では絶対に味わえないですから。そして画像や動画を保存することで、支配欲や所有欲が満たされるのです」
「盗撮をやめられない男たち」扶桑社 2021年 P.116
痴漢にしろ盗撮にしろ、やりはじめるきっかけこそアダルトコンテンツからの好奇心だったり、マスターベーションのためのおかず探しなど自身の性欲を満たすためのものであっても、それを続けていくことでその犯罪をすることが手段から目的に変化をしてやめられなくなるというのも共通点とされています。
つかまるまでどんどん行動が過激化していき、そしてついに捕まったときにも表面的には反省をしていてもそこに「被害者」がいるということに非常に鈍感でもあるといいます。
「人をモノとして扱えば相手が傷つくことはわかっています。だからこそ、人を『モノ化』することが最上の悦びにつながるんです。人を支配することで私の傷ついた自尊心は回復するし、生きていていいんだと思える。『モノ化』というよりは、私の欲求を充足させてくれる『生贄』とでも表現するのが適切かもしれません。(後略)」
「盗撮をやめられない男たち」扶桑社 2021年 P.48
被害にあった人にしてみれば迷惑この上ないことではありますが、こうした性犯罪をする人の多くは性欲それ自体を満たすというよりもむしろそうすることで相手を完全に支配しているという満足感を得るということに強い快感を覚え、犯罪とわかっていながら反復を続けてしまうという特徴があると言えます。
※なお2023年7月13日より施行された「撮影罪(性的姿態撮影等処罰法)」がどのような経緯で立法されることになったかについてなど詳しい背景も本書で説明されています。このブログ記事では本筋から外れるので詳しくは触れませんが、日本における性犯罪の基準が外圧によってでしか見直されないという非常に残念な状況なども知ることができますので、興味のある方はぜひ一度読んでみることをおすすめします。
「見る」ことと性的興奮の関係
科学的根拠はともかく、わりとよく聞く俗説の1つに「男性は視覚で、女性は聴覚・嗅覚でより興奮する」というものがあります。
この手の男・女をざっくり二分して特徴を決めつける言説は個人的にはあまり好きではないのですが、最近読んだ短編小説を読んで「なるほどわからん」という気持ちになりましたのでまずはその説明をしてみようと思います。
昨年の冬、凍てついたモンゴルの大地に腹ばいになり、ライフルの照準を狼に合わせたとき、智貴は今と似たような感覚を味わった。(中略)待つこと二時間、岩の陰から出て来た黄土色の狼にピタリと照準を合わせ、いつでも撃てるというシチュエーションになるや、相手に対して生殺与奪の権を握っているという優越感に、身体中が総毛立つほどの快感を覚えた。(中略)
狼の命と引き換えに手に入れたのは、脳内におけるアドレナリンの大量放出だった。
トリガーを引き、狼が、雪に覆われた大地に吸い込まれるように倒れるのを確認し、しばらくしてから、股間がはち切れんばかりに勃起していることに、智貴は気づいた。
「午前零時 P.S.昨日の私へ」新潮文庫 2009年 鈴木光司著 「ハンター」より
私自身が男性の持つ性欲について理解が足りないのか、それとも女性の身体では実感をするのか難しいのかそのへんはわかりませんが、この短編を読んだときにとても不思議な感覚になりました。
上記の引用は「午前零時 P.S.昨日の私へ」という有名作家が「午前零時」というテーマのもとに短編を書いたものをまとめた短編集からのもので、「リング」などで有名な鈴木光司氏による「ハンター」という短編の一部です。
ネタバレなしのあらすじを簡単に説明しますと、後に付き合うことになる男女二人が出会う前からのそれぞれの気持ちの流れを別視点で綴った構成となっていて、引用部分は女性主人公を口説くつもりで相手の様子を見つめているときに男性主人公である「智貴」が過去の経験を回想しているシーンです。
初対面の相手に対して性的な魅力を感じて惹かれるという気持ちは男女関係なく理解できることだと思いますが、この「ハンター」の男性主人公は相手に狙いを定め、様子を伺い、自分の行動一つで相手を自分の手中に入れることができるという支配権を得たという実感そのものに快感を覚え、性的に興奮をした、と描写されています。
そこで話を前項の「盗撮」に戻しますが、そちらも相手を一方的に見るという行動を依存的に繰り返すという症状が見られるとしていたわけで、シチュエーションは違えどこの「ハンター」の主人公智貴と同じように物陰からこっそりと見て、相手の動きを観察するということが優越感や支配感を充足していく心理は同じと言えます。
前のブログの記事私達が性欲と呼んでいるもので少し触れましたが、小児性愛においてはその対象である子どもを「かわいい」と思うと同時に「いつでも殺せる」という2つの気持ちで見つめているという構造があるとされています。
性犯罪としてのジャンルは違えど、痴漢においても一方的に相手を見ることと「自分の行動一つで相手の生命を奪える」という支配的な感情が一体になることで屈折した欲望を繰り返し味わいたいという気持ちを起こさせることになっているのかもしれません。
私自身はこの「相手を一方的に見る」という行動が性的興奮につながる感覚は正直なところよくわからないのですが、私の大好きなオンラインゲーム「Dead by Daylight」(通称DBD)において映画「ハロウィン」シリーズの殺人鬼マイケル・マイヤーズをモデルにしたキラーがこの「見る」ことにより強い力を得るという能力を持って高い人気を維持しているあたり、多くの人が共通の意識として「見る」ことの支配性を理解し共感しているのではないかと思ったりします。
※DBDの詳しいゲーム性は興味のある方は調べてもらいたいですが、簡単にマイケル(シェイプ)の能力の説明をしておくと、対戦相手を攻撃するよりも前にじっと見つめることにより、ゲージが溜まり非常に強い能力を得ることができるしくみとなっています。また、同じくゲーム内に「ゴーストフェイス」という見つめることで力を得、逆に見られることで能力を失うキャラクターも存在しています。
※もう一つDBDには「ハントレス」という女狩人のキャラクターもいるのですが、そちらは狩りをすると言ってもマイケルやゴーストフェイスと異なり、隠れて相手の様子を探って自分の力にしようというところが全くないあたり、なんとなく窃視(のぞき)や盗撮の加害者の比率が男性に異様に高いことの象徴のような気もします。
百合やBL愛好家にみられる「壁になりたい」
ということを踏まえて、そこから百合モノやBL作品を好む人達が時々使う「壁になりたい」という言葉について考えていきたいと思います。
先にこの「壁」という言葉について詳しく解説していきますと、いわゆるオタク界隈で使われる「壁」には複数の意味があるようです。
- 何かから何かを守る障壁のこと
- コミケなど同人誌即売会で壁際にスペースが配置されるような大手のこと
- 推しカップルの邪魔をしないように家具の一部になり見守る立場のこと
今回話題として取り上げるのは三番目の「推しカプ」を見守る存在としての「壁」です。
いつ頃からこういう使われ方をされるようになったかははっきりしませんが、2020年頃にはこの意味の「壁」を題材にした創作物なども見られるようになってきているのでその数年前くらいから概念としては存在していたのではないかと思われます。
面白いのが、この「壁になりたい」という言葉が用いられるのは百合・BL界隈独特の現象であるという点と、もう一つそれを言う人はほぼ全員が女性であるということです。
男性がする「壁になりたい」というニュアンスの発言の場合、壁ではなく椅子やぬいぐるみ、あるいは自転車のサドルといった見守りたい対象と直接接触できるものを好む傾向があるようで、実際にエロ漫画などのジャンルとしてそうした接触できる事物に転生などをして、自分だけが知る推し(主に女性)を覗き見るのことで快感を得るタイプのものが目立つ印象があります。
※2015年に通称「側溝男」とネットで言われた事件がありましたね。その逮捕された男性(当時28歳・会社員)は「生まれ変わったら道になりたい」という言葉を発し、幅55cm深さ60cmの側溝に約5時間体を潜ませて通りかかった主に女性を見ていたといいます。
そうしたオブジェクト転生ものの作者が(名義上だけでも)女性であることもありますが、もともと男性であった人が壁になろうとしてもなぜか直接女性と接触できるものになってしまっていたというコメディもそのジャンル内でわりとよく見かけます。
ex.)見守るのが趣味だった百合男子が壁になるつもりで転生したらなぜか自分が女子高生になっていた、など。
作者が男性でも女性でも、女性が転生したら推しの男性と直接接触できるオブジェクトになっていたというシチュエーションはまず見かけないというのが、やはり窃視というものに対しての興奮のしくみが男性的なものと女性的なものとで異なるからではないかと思われます。(私が知らないだけでしょうか…?)。
また女性オタクが言う「壁になりたい」で対象とされているのは、推しである一人の人間ではなく、「推しカプ」としての二人(ないしはその二人を含む人間関係)であるというのも特徴的な点です。
※なおこの「壁」という言葉に対して異論が述べられるケースもあるようですが、その場合の理由として「もっと全景を見たいから天井になりたい」とか、「いろんなアングルで見たいから建物全体になりたい」などといった別のオブジェクトを想定したものであったりしますので、あくまでもこの「壁」というのは【関係に介入できない人間以外の何か】を示す象徴としてとらえてもらいたいです。
自分の推しがその愛する人と関係を深めたり、あるいはすれ違いなどからケンカをしたり、言えない悩みを抱えていたりといったことに対して、自分がモブや家族となってなぐさめたり間を取り持ったりということはむしろしたいと思わず、成り行きを見守りたいというのが女性オタク的な「壁になりたい」という気持ちの芯となっているわけです。
そのように考えると、BLや百合を扱った作品において主人公や登場人物が過剰に自分の心の中を語るモノローグが多様されると、見ている側にとって「壁」の領域を踏み越えた近すぎる距離を感じることになるのかもしれません。
そのへんの距離感の違いを、「窃視」というものに対して読み手がどういう形で性的に興奮しているかということを考えて読むと、また作品に対しての見方が変わってくるかもしれませんね。
あるいは、世の中にあるBL作品というのは多かれ少なかれ作者や読み手、編集者である女性たちが願望や欲望を男性登場人物に投影しているものだとすると。
女性オタクたちが「壁になりたい」と言いつつ、女性作者が男性登場人物をなりたかった「壁」ではなくモブや登場人物として転生させてしまうのはそのBLと同じく何かの投影…なのかもしれません。
ただそのあたりの考察は決めつけをしても面白くはありませんし、ただでさえBL界隈は「自己投影」「ジェンダー」などといった分析的視点をひどく嫌って「好きなものをただ味わっているだけで何が悪い」と怒られてしまうところなので、詳しくは触れないようにしておきましょう。