私達が性欲と呼んでいるもの

なんとなく許されている性欲の暴走への反論

人間って、自分の意思や欲求や本能だけに従って生きていくと、どうしても苦しくなって行き詰まってしまうと思うんです。そして、その苦しみから逃れるためになにかに依存して、生活が破綻してしまうこともある。逆に、自分の欲望をいったん手放して、ちょっと大きな、というかより高い次元の存在に対して「お任せ」できるようになると、そういった苦しみから逃れられるのかなと思うんです。

「セックス依存症」幻冬舎 2020年 斉藤章佳著 P.143

いきなり引用になってしまいますが、こちら「セックス依存症」(幻冬舎新書 斉藤章佳著)の第六章の記載の一部となります、有名AV男優の森林原人氏との対談における同氏の発言です。

まずは簡単にこの書籍の内容をざっくりと説明をしますと、精神保健福祉士・社会福祉士として長年依存症患者の治療にあたってきた斉藤章佳氏によるもので、実際に見てきた症例やその中で考えたことなどを「セックス依存症」という分野に絞って詳しく説明をしたものとなっています。

著者の斉藤氏は他にも小児性愛や窃盗症(クレプトマニア)、痴漢や男尊女卑などを行う男性心理についての複数の著書を上梓しており、いずれも非常に理論的に現場目線で内容をまとめてくれています。

言うまでもなく性犯罪というのは人の命を奪う殺人と並ぶ重大な犯罪行為です。

しかし殺人や暴行といった犯罪を行った犯人に比べて、性犯罪を行った人たちの罪の意識は非常に軽く、どこか「我慢できなかった。仕方なかった」という言い訳が平然と使われることがよくあります。

著者の立ち位置は一貫しており、そうした性犯罪者の軽すぎる罪悪感に対してそれを作り出しているのは漠然と世の中に蔓延している「我慢できず抑えられない性欲」などといったものではなく、本人の過去の経験などからくる認知の歪みやそれを許容している社会構造だとしています。

といっても性犯罪者本人には責任がないというわけではなく、犯罪者自身が深く自分自身の弱さと向き合い、かつなんとなく許されている社会倫理を正していくことが再犯や潜在的な犯罪者を抑制していくことにつながるともしています。

冒頭の引用部分の発言をした森林原人氏はちょっとAV業界に詳しい方なら誰でも知っているレジェンド級のAV男優の方ですが、大学時代に大きな挫折を経験するまでは非常に優秀な成績の学生であったということもあり非常に理知的に自分の心理と向き合っていることが伝わってます。

森林氏の自己分析では自身もかつてはセックス依存症状態にあったといい、数多くの性行為を経験していくことにより自分自身の承認欲求や肯定感を満たしてきたということです。その中で多くの学びや気付きもあったようで、短いながらもかなり読み応えのある内容でした。

冒頭の引用部分なども、森林氏がそれに気づいたことで生きることが楽になったという大きな気づきを美しい言葉でまとめたものとなっています。

よくネットで目にするようなネタ的な男憎しの過激なフェミニズム論とは全く違った、弱さに向き合った男性だからこその意見のまとまった書籍となっておりますので、ぜひとも未読の方は読んでみてもらいたいです。

「かわいい」に潜む暴力性

同じ著者の書籍に「男が痴漢になる理由」(イースト・プレス 2017年)、「「小児性愛」という病 ―それは愛ではない 」(ブックマン社 2019年)というものもありこちらも読みました。

いずれも痴漢・小児性愛といった各種性犯罪を繰り返し行い、更生施設を訪れた人のことがレポートされており、読むほどに世間的に思い込まれている「性犯罪者」像とは違った実情がうかがえます。

著者の見解として共通しているところを簡単にまとめると、痴漢にしろ小児性愛にしろそうなりたくてなったという人はおらず、本人の生育環境やストレス環境に加えてその犯罪を行う機会があって「トリガー」が引かれて行動を起こすといいます。

そしてその犯罪行為による小さな成功体験を積み重ねることで認知の歪みが強化されてゆき、自力では更生が極めて難しい依存症状態になっていくとしています。

個人的にかなり興味深かったのが幼児への性犯罪を起こした人への聞き取りで共通して聞ける言葉に「かわいい」という言葉があるという部分です。

「子どもというのは、見ているだけでかわいい」

「かわいくてしょうがないから、ついこんなことをしてしまうんだ」

「傷つけちゃいけない、かわいい存在だから、大切に扱いました」

と口々にいいます。子どものことをどんなふうに見ているのかと尋ねたときの答えです。子どもがかわいいから、自分たちは犯行に及んだというのです。

「小児性愛」という病 ―それは愛ではない  斉藤章佳著 ブックマン社 2019年 P.238

しかしそれと同時に小児性愛者特有の発言として「騒がれたら、殺してしまえばいいと思っていた。」というケースが多いともしています。

著書によると、他にも性犯罪者を多く見てきた中でもここまで極端なことを言うのは小児性愛者特有のことだといいます。

「かわいいから大事にしたい」と「騒がれたら殺せばいい」は真逆なことを言っているようですが、その裏側に目の前の相手は自分が完全に力で支配できる存在だと思っているとすれば全く矛盾はありません。

私達は普段なにげなく「かわいい」という言葉を使いますが、それは無意識に「それは自分に絶対に危害を加えない存在である」ということの安心感を示しているとも言えます。

もちろん世間の大多数の人はそこまで深い意味を考えて「かわいい」と使っているわけではないでしょうが、「自分に害をなさない存在=自分の気分次第で相手の全てを奪える」という暴力や支配への快感が潜む言葉であるということを意識してみると、ただの「かわいい」という言葉から違った景色が見えてくるのではないかと思います。

ややうがった見方をしてみれば、DVや強姦など対象に暴力的な行為をすることで満足感を得る人というのはそうした愛着の裏に潜む暴力性を同時に実行しているということになるんでしょう。

母性と言う名の支配性

と、これまで述べてきたものは書籍内で紹介されている主に男性から女性に対しての性暴力を前提にした内容です。

そこで少し視点を変えて、女性を主体(加害側)にした性欲や性暴力について考えてみました。

ネット事件簿になりますが、「母親ヅラ」問題というものが2022年に有名Vtuber配信者の無期限引退に伴い話題になったことがありました。

この問題は2023年になってからも、はてな匿名ダイアリーで匿名記事として自称ゲーム配信者という投稿者が同じような違和感や不満を綴っていたりもします。

ご存知ない方のために簡単に概要をまとめますと、有名Vtuber配信者が自分の配信に来る(おそらくは)女性ファンの中にコメントで「母親ヅラ」をする人がいるということに不満を漏らしたのが発端です。

具体的には「反抗期なんだね」「私がいないとダメなんだから」とかいう感じのもので、確かうろ覚えですが他の配信者とコラボするときに「うちの○○(配信者)をお願いします」とか勝手に言ったり、ゲーム配信でいいプレイを見せたときに「えらい」とか上から褒めていたとかいうものもあったと思います。

最初にこのVtuberの無期限引退の話を見たときに「母親ヅラ」がなぜ嫌なのかというのがピンと来ませんでした。というのも、私の認識ですが配信者というのは多かれ少なかれ視聴者に好かれるための媚を作るものだし、特に美形アニメキャラ風の見た目で活動するVtuberは「かわいい」と言われることを喜ぶものだと思っていたからです。

ですが上記の書籍にある「かわいい」を意識して改めて考えて、もしかして世間的に「母性」とされているものの裏には、相手を絶対的に支配したいという願望があるのでは?と思うようになりました。

「母性」的なものの根源にある感情の1つが「かわいい」です。

子どもにしろ恋人にしろペットにしろ、自分が世話をせざるを得ない立場にある(主に)女性は「母性」という名のもとに愛を注ぎかわいがります。

しかし前項で説明したような裏に暴力性を秘めた「かわいい」を前提に考えてみると、その母性は生殺与奪の権を一方的に握っている赤ん坊と母親の関係に近いものがあります。

少し話題がそれますが、現在まで続く日本的な男尊女卑思想のもとになっているのは「母親支配からの脱却をしたがる男性同士のつながり」とも言われています。

つまり生まれたばかりの男性は母親に生殺与奪の権を全面的に握られているため、それが「男らしさ」へのプライドを大きく傷つけることになっているそうです。そのため自我がついた頃から「女性」を下に見て蔑み性の対象として人格を踏みにじるミソジニー行為をしてはその正当性を男性同士で確認しあうことにより、男性としてのプライドを保ち、同じ男性同士で強い絆を結ぶことができるようになる、というもの。

多くの女性にしてみれば「?」な感覚だとは思いますが、その仮説を前提にすると「母親ヅラ」されることに恐怖に近い不快感を感じる(若い)男性がいるということにもなんとなく納得できます。

あと、「DV彼氏につかまりやすいタイプの女性」として「とことん尽くすタイプ」というふうにもよく言われています。

これは一見「何をやっても嫌われないんだからそれが男をつけあがらせるだけ」と思ってしまいがちですが、もう少し深掘りをすると「母性」により相手を支配しようとする女性と、それに暴力的に抵抗する男性という構造も薄っすらと透けてくるようでもないでしょうか。

物理的な腕力で強いものが弱いものを従わせようとする場合と異なり、力では勝てない女性が男性を支配しようとするときに用いられるのが「母性」であり「かわいい」なのではないかと、このようにも考えたりします。

もっとも実際の母親や赤ちゃんからの子育てを経験してきた女性が自覚して「かわいい」を支配的な意味で使っているとは思いませんが、むしろその時の経験が後の人間関係の中で相手を支配したり下に見たいと思ったときに「かわいい」に反映される場合があるのでは?と思ったりします。

一応怒られる方もいると思うので予防線を張っておくと、あくまでもこれは私の考えであって世の中全てがそうであると言っているわけではありませんのであしからず。

百合創作における母性について考える

さて最後に百合好きかつ弱小百合創作者としての視点を考えてみようと思います。

百合的作品にはかなりの頻度で母性的なキャラクターが登場します。

みんなのお姉さん的ポジションであったり、料理や掃除、裁縫が好きなどいわゆる「女子力」が高そうなキャラクターです。元気系、ヤンデレ系、などといったキャラクターをまとめる1つの「記号」として母性系というものが成立していと言ってもよいでしょう。

※BL作品にもその手の家事が得意で世話好きなキャラクターは登場しがちですが、NLや百合作品に登場するそれに比べて家事力そのものがアイデンティティになっているケースは少ないのではないかと思います。どちらかと言えばいわゆるスパダリ的な経済力や仕事力という別の支配的性格を持ちつつその延長としての家事力という扱いが多いのでは?統計をとったわけではないので印象ですが…。

家事得意系というのがキャラクターとして確立していることについての是非は私はなんとも言いませんが(そうした独立した個性にされることは好きではありませんけど)、女性同士の関係において家事力は相手への支配として機能している部分はあると思っています。

おいおいそんなの完全に(ストレート)男性向けの少年・青年マンガやラノベとかにも家事力キャラは出てくるじゃないかと思われるかもしれませんが、そうした一般男性向けの作品に登場する母性キャラは非常に巧妙に「母性」から「支配性」が抜き取られたアンリアルなキャラクターに仕上げられています。

前述したVtuber配信者などが気味悪がっていた「母親ヅラ」を作品内で見せるようなことはまずなく、支配ではなく従属を前提とされていてまるで(それこそママによって)小骨を全部きれいに取り除いて出してもらった焼き魚のような雰囲気すら漂います。

しかし百合作品における母性キャラはきちんと「母親ヅラ」的な一面をしっかり維持しており、家事力を持って愛する相手を束縛しようというしっかりとした意思を感じるものが大半です。

ここでまた最初に紹介した書籍「セックス依存症」の内容に戻るのですが、冒頭と同じく森林原人氏との対談内において、氏は性欲を6つのカテゴリーに分類しています。

①性的接触行為によって肉体的快感を得たい(肉体的快感欲)

②相手を所有・支配・征服したい(支配関係欲)

③精神的につながりたい(連帯関係欲)

④セックスを通して社会的な評価を得たい(社会的承認欲求)

⑤遊びや非日常的な時間や感覚を堪能したい(娯楽欲)

⑥自分の子孫を残したい(生殖欲)

「セックス依存症」幻冬舎 2020年 斉藤章佳著 P.177

※なお⑥の生殖を目的にしたセックスについては、森林氏は否定的な意見を述べています。「子孫を残したい」という名目でセックスを求めるのは男性に都合のよい神話だとしています。

百合作品においては(特に女性向けを意識したゆるめの日常作品においては)①の具体的な肉体快感を伴う描写は敬遠されがちです。

むしろゆるめの百合作品を好む人の多くは、人間関係の中に潜む性的な雰囲気をもつつながりを求めて読んでいることがほとんどだと思うのですが、その中の描写の1つとして②の支配的な関係が「母性」によって表現されているのではないかと思ったりします。

この「母性による支配」という感覚は、百合系Vtuberさんなどが同じく女性から「母親ヅラ」としてコメントを投げかけられたときにどのような反応になるのか、個人的には非常に気になってしまいます。

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