「脳が読みたくなるストーリーの書き方」を読んで
Twitterで少し触れたんですが、最近読書が面白くなってきていましてわりと読むようになっています。
中でも印象に残った本について少しずつ紹介をしていきたいと思うので、今回はこの「脳が読みたくなるストーリーの書き方」(リサ・クロン著2016年)にしてみます。
先に注意事項として言っておきますと、内容については軽く触れますがあらすじを羅列するのは避けようと思っておりますので、もし詳しく書籍の内容を知りたいという方は本書の方を実際に読んでみてください。
まずこの本の内容についてですが、タイトルの通りいわゆる「面白いシナリオとは何か」ということを著者の経験をもとに説明しています。
著者の方は小説の選考に携わってきた方ということで、長くその仕事をするうちに受賞する優秀な文章には特定の共通点があるということに気づいたそうです。
その共通点を細かく挙げることはしませんが、中でも大きいのが「数行でまとめることができる」ということなんだそうで。
人の脳というのは点と点をつなげて線にしていく作業を自然にしていくようにできているので、そうした点となるポイントをうまく設置できている話は読みやすく、面白いと感じやすいというのがだいたいの主旨ではないかと私は思いました。
中でも出だしの数行は重要で、最初の一文の中に「誰の話」「何が起きているか」「危険にひんしているのは誰か」が提示されているとぐっと引き込まれるとありました。
本書の中では実際のいくつかの有名な文章を挙げてあり、確かにいずれも誰がどこで何に悩んでいるかということが提示されています。
世界的ベストセラーになった書籍の中には文章的には文学的価値が低くても、そのポイントをおさえていることで評価されたものがあるという極端な意見までもがあり、まあ近年の「できるだけ早く内容だけ知りたい」という若者のニーズにはそういうのが受けるのかと納得をするとことがありました。
そういえば相当昔ですが私が学生だったときにも、論文作成の方法として一文目に特に注意しろと言われた気がします。
実際に1ページ目がつまらない作品はその先も読まれないので正しい意見なのだろうと思いました。
サガンの「悲しみよこんにちは」の出だし
ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。
「悲しみよこんにちは」サガン著 朝吹登水子訳 新潮社版
私の現在のHNのもとになっていますフランソワーズ・サガンですが、「悲しみよこんにちは」はその第一作目にしてサガンの名前を世界的に有名にした名著です。
サガンはこの小説を若干18歳のときに書いたのですが、この最初の一文については相当悩んだとのちに語っています。
私自身この出だしから始まる一段落を読んだときに、その後の物語の始まりと文章のテンションが違いすぎて軽く違和感を感じたのをよく覚えています。
どういう物語であるのか全く予備知識がない人がこの一文から始まる出だし数行を読んでも、全く意味がわからなくて混乱をするのではないかと思います。
その夏、私は十七だった。そして私はまったく幸福だった。私のほかに、父とその情人のエルザがいた。
「悲しみよこんにちは」サガン著 朝吹登水子訳 新潮社版
次の段落からはこうして始まるので最初に紹介した「おもしろい文章」へとなっていくんでしょうが、じゃあ最初の文章はなくてここから始まったらいいのかという話になりますがそれは全く違うでしょう。
なぜこのような具体性のない出だしにしたのかはそれは書いた本人にしかわからないことではありますが、少なくとも私はこの出だしがなかったら全く全体の印象は変わっていただろうなと思います。
私が「脳が読みたくなるストーリーの書き方」で出だしについて書かれたくだりで違和感を持ったのはこのサガンの文章があったからですね。
面白い文章の型は決まっているのかもしれないけれども、じゃあ世の中全部の文章がその通りに最初の数行で全体像が全部しっかりわかるようになっているのが理想的かと言えばそうじゃないなと、そのようにも思うのです。
とはいえ世の中の殆どの読み手は「さっさとわかるように説明しろ」と思いながら読むものなのかもしれませんが。
事実の裏側にあるものを空想すること
「脳が読みたくなる」というのは、つまり人は特定の事象とまた別の特定の事象があったとき、その間にあるものを自然に埋めたくなるということを示しているのだと私は理解しました。
そのつながりを自然に埋めやすくするのが「読んでいて気持ちのいい話」になるのだろうということです。
簡単に例えれば、道を歩いていたらキョロキョロしながら歩いていた人がいた、もう少し歩いたら財布が落ちていた、ということがあったら「ああ、あの人が落としたからあんな動きをしてたんだ」というふうに思うわけですよね。
落ちていた財布とキョロキョロしていた人の存在は全く別のものであった可能性もあるのに、頭の中で「だからそうだったのか」と納得して安心してしまう感じと言いますか。
とどのつまり面白い話を作るというのは、よくある複数の事実をよくある流れで提示してそれを読む人が楽に補完できるようにしてあげる作業ということになります。
逆に全く事実の提示がなく感情や観念だけを先に提示する「悲しみよこんにちは」の出だしのような文章はどうなのかというと、それはそれでその抽象的な言葉や表現の中から「それが当てはまる事実とは何なのだろう」という方向に想像をしていくことになるわけです。
普遍的な感情表現は高い文章力と深い情緒がなければできないので文学的価値が高いものにするには大きな才能が必要になりますが、それはそれで高等なテクニックでしょう。
話は少しそれますが、そういえば数年前にSNSで流行した陰謀論とかも、あえて抽象的なものいい(「次の満月の頃、悪魔が西で声をあげるだろう」みたいな)をすることで受け取る側が勝手にそれを膨らませて新しい陰謀論を作ってくれるというテクニックが使われてたみたいですね。
なので抽象的な文言から文章を「楽しむ」(と、あえていう)ことは読書経験や教養などに関わらず誰にでもできることなんじゃあないかとも思ったりします。
終わりに
しかしながら「面白くしよう」」と思って面白い話が書ければ誰も苦労はしないわけでして。
結局のところ自分が面白いと思ってるかどうかが一番大事という身も蓋もない結論に私自身は行き着いてしまいました。
私が面白いと思って書いても受けの悪い話になってしまうのはまあそれは仕方がないことですね。
コメント