百合ソーシャルという概念

ホモソーシャルとホモセクシャル

最近こちらの本を読みましたのでその中で気になった部分について少し書いてみようと思います。

先に言っておきますが、こちらの本は批評という形をとったエッセーでして私はその批評そのものに何か賛成とか反対とか言うつもりはありません。

ただ自分がそれまで知らなかったことや中の文章によって考えたことについて述べるにとどまります(予防線乙)。


タイトルにありますが、まず考えてしまったのが「百合ソーシャル」という概念は果たして成立するのかということです。

「ホモセクシャル」は「男を愛する男」、「ホモソーシャル」は「男の利益を促進する男」の絆であると解説します。ホモソーシャルな場では男同士の連帯が重視されますが、ホモセクシャルな関係は強く断罪され、ホモソーシャルとホモセクシャルの連続性が否定されます。

「お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門」P.76 北村紗衣著

この文章がある章におけるテーマは映画「バニシング・ポイント」から考察する自由の定義の男女差と、映画で描かれる男性同士の関係についてです。

私は残念ながらこの「バニシング・ポイント」はまだ観たことがないので深く突っ込めないのですが、文章から察するに映画の主人公男性は自動車で警官たちという権威から逃亡をする中で、ラジオのDJ男性と遠距離にありながら強い絆と信頼を築いていくというのがあらすじのようです。

その逃亡劇の中においてヒッチハイカーとして「いかにもなゲイ」が登場してきて主人公を襲い金品強奪と性的暴行を企てるものの、逆に主人公はそれらを「男らしく」返り討ちにするというエピソードがあるのだそうです。

強い絆を持つ男同士の関係を描きながら、半ば言い訳のように「これはゲイじゃないので」みたいな表現としてステレオタイプのゲイを撃退するという方法をとっているあたりから上記引用のような「ホモセクシャル」と「ホモソーシャル」の概念の違いが著者の批評のテーマになっていきます。


私も社会人として働いた経験がありますのでいくつかの場面で「ホモソーシャル」的な世界は目にしてきました。おそらく性別や年齢を問わず男同士のそうした関係を見聞きしたことがある人は多いのではないかと思います。

こう言うとまた語弊があるかもしれませんが、男性同士の「絆」で繋がった組織というのは集団の利益に非常に敏感で、その組織の利益のためなら世間一般的な正義だの倫理だのは平気で二の次・三の次にしてまずは組織内部の秩序を守ることを優先する強固さがあるように感じます。

その一方でそうした絆は決して恋愛感情ではないという言い訳を常にし続けている不思議な関係でもあるなあと思うわけです。

逆に考えればホモソーシャル内に恋愛感情が許されたら内部に「敵」ができる可能性も大いにあるわけで、それが過剰なホモフォビアとなって働くのかもしれませんね、しらんけど。

百合セクシャル・百合ソーシャル???

「ホモセクシャル」という言葉自体には男性同士だけでなく女性同士の関係も当然に含まれますが、一般的に「ホモ」という言葉を使うときは男性同士の関係が前提になってしまいますのでここでは便宜的に女性同士の関係は別の言葉を使うことにします。

「レズビアン」という言葉は女性同士で恋愛をする人のことを示すため「レズセクシャル」というのは収まりが悪く、また語感をまろやかにするためにもこの先は「百合」という言葉にします。


さて前置きが長くなりましたが本題の「百合セクシャル」と「百合ソーシャル」について少し話します。

「百合セクシャル」については説明するまでもなく、現実でも創作でも多くの場所で認知されるものとなっています。ホモセクシャル同様に、女性同士が愛し合うという気持ちは実際に感じたことがあるなしとは別に「そういう人もいるんだろうなあ」でほとんどの人は理解可能ではないかと思います。

その一方で女性同士の組織としての「百合ソーシャル」は成立するのかと考えると、現状そんなに実感ないかなあと思ったりします。

女性が多い組織というのは実際多くの場所でありますが、何か外部に漏らしてはいけない不祥事があった場合に組織を維持するために倫理をねじまげ責任を曖昧にして個人をかばうというようなそういう動きってするかなあ?と考えてしまうんです。

もっと端的に言うと「恋愛感情抜きに女性の利益を促進するための女性同士」という概念が成立するかということです。


政治的な話は賛否が割れるのでそんなにしたくないですが、例えば現在の自民党の有名女性議員を見ても「女性の権利獲得」を優先している人よりも男性的な意見を女性の立場から言うことで希少性を出して知名度を得ようとするタイプばかりが目立ってますし(※このへんのことについてはまた別の結論がありますのでまたいつか)、現在「フェミニスト」として活動をしている女性ですら女性には塩対応ということも珍しくありません。

嘘みたいと思うかもしれませんが、普段女性の権利やジェンダーの不平等を声高に訴えている女性が、その意見に賛同した女性ファンなどに挨拶をされてもフンという顔をすることって本当に多いんですよね、悲しいことに。

どちらかというと女性の権利を訴えつつ、賛同する女性に理解や共感を示すことができる人っていうのは多かれ少なかれ「百合」的な感情に忌避感がないタイプの―――ぶっちゃければ女性同性愛者の傾向がある人ではないかと思います。


おかしなもので男性が男性同士の絆を確保するために恋愛感情を禁忌的なものにするのに対し、女性においては女性同士でまとまった絆の確保には恋愛感情が必要になってくるのではないでしょうか。

そういえば女性同性愛を最も直接的に描いたドラマと言ってもいい「The L Word」において、ファイナルシーズンでミア・カーシュナー演じるジェニー・シェクターが亡くなった真相について全員が完璧に口裏合わせをしたという場面がありましたね。

「同じ女性だから助けてもらえる」という感覚はシス女性同士の関係においては必ずしも正しくはないという残念な現実を実感したことがある人も多いのではないかと思います。

女性同士の恋愛感情は競合しないのか

ホモソーシャル内においてホモセクシャルが禁忌となるのは恋愛感情が競合する可能性があるという仮説に基づくと(ゲイの嫉妬のことを「男の力を持った女のヒステリー」と揶揄するジョークもありますし)、では女性同士の恋愛感情は競合しないのか?という疑問が発生してきます。


確かに自分の好きな彼女が別の女性と浮気をしていたということになれば修羅場もありえますが、個人的な感情で想像をすればどちらかと言えば自分の彼女が自分に内緒で男と浮気してた方が数倍ショックですね。

別れたあとで男と付き合って結婚して子供ができたとかいう話はまあ珍しくないですし自分にも経験ありますが、あらそうという諦めと同時に深い残念感があるのも確かです。

逆に別れたあとにまた別の女性とつきあったということであれば、別れ方にもよりますが何やかやでまた友達になれるような気がします。

また「The L Word」の話で恐縮ですが、ドラマでも付き合った別れたまたくっついたという関係になりつつ友達同士の輪というのは崩れない体で話は進んでいきます。


ただまあホモセクシャルとしてのホモソーシャルと言いますか、全員が同性愛者の男性の組織というのがどういった結束をするのかということについては不勉強でわかりにくいのでそこはまた別の価値観があるのかもしれません。


いずれにしろ、恋愛感情の可能性があるから仲間にはなれないのか、逆に恋愛感情の可能性があるから仲間になれるのかという違いの性差というのは面白いなあと考えてしまいました。


冒頭で紹介した書籍についてはもう少し突っ込みたい部分がありますので次回に続くかもしれません。

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