なないろのゆり - SS:最初のボタン

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SS:最初のボタン

学生時代から自分に向けられる物欲しげな視線には気がついていた。
だけども十代の千種(ちぐさ)にとってはその視線の裏側にある感情はあまり意味を持っていなくて、単純に一つでも多くの注目が自分に集まっていることの方が大事だった。

*****

それは本当に全く予期せず、突然に起きたことだった。
ある朝千種がいつもの通りに朝出勤をすると、まるで冗談のようにオフィスの入り口には張り紙がしてあった。本日をもって経営権は全く別の会社が譲り受けることになったという内容だった。
読んで上司や同僚と同じくもちろんひどく動揺はしたが、千種がむしろそれよりももっと大きく動揺したのは、間もなくホールで始まった説明会で新しい経営者と名乗る女性の顔を見たときだった。

新社長として紹介され登場してきたのは驚くことに自分と同じくらいの年齢の女性で、しかもよく見るとその人はかつての千種の知り合いである、中学高校を通しての同級生だった。
ざわめく社員一同を前に壇上の中央へ進みながら、その女性—–井関茉莉子—–は見渡すように走らせた視線を千種のところで止めた。
見下ろされる形で目が合った瞬間、茉莉子の口元はほんの少しだけれども微笑んだようにも見えた。

*****

学生時代の茉莉子はどちらかというと目立たないキャラクターで、派手目のグループにいた千種とはほとんど接点がなかった。だけども千種がふと教室内を見回したときなぜか目が合うことが多くて、その視線に気づいた当初こそ気味悪いようにも思ったが、相手に悪意がないらしいことに気づいてからは反対に面白がるようにもなっていた。
一度だけ忘れ物を取りに来た千種は茉莉子と教室に二人きりになったことがあり、好奇心からどうして自分をそんなふうに見るのかと尋ねてみたことがあった。

それから十年近く経った今、大勢を目の前にして堂々と話をする茉莉子はまるで別人で、その放課後自分一人を前にして目も満足に合わせられないでいたことが嘘のようだった。

経営者の交代から数日後に、千種は社長から呼び出しを受けた。
内部調査などで数人移動や解雇の勧告を受けた者もいたこともあったので、まさかを考えながらも社長室の扉を叩いてみると、肩透かしをくわせるように茉莉子本人はそこにはいなかった。ただ無口な秘書から一枚のメモを渡されただけだった。

誰もいない場所へ移動してこっそり中を開いてみると、短いメッセージで終業後に来るようにとある高級ホテルの名前が書かれていた。

*****

「久しぶりね、千草さん」

最上階のホテルの部屋には、大きな窓を正面に入ってきた千種に背中を向けるようにして茉莉子が一人で立っていた。ぴんと伸びた背中と着こなされた高級なスーツから、後姿を見ただけでも気おされるような強い自信のオーラが立ち上るかのようでもあった。

「はい。覚えていてくださいましたか。井関社長…」
「二人の時はその呼び方はやめない? お互い15・6才の時には社長や社員て身分じゃなかったんだし」

何か飲む?と聞かれて千種が頷くと、種類を聞く前にテーブル脇のワゴンからいかにも高級そうなワインが取り出された。半ば強引に手渡される形でグラスを受け取って乾杯をすると、驚くほど千種の好みにぴったりとした味わいをしていた。

「気に入ってもらえた?この部屋もね、今日あなたを呼ぶためだけに取ったの」

一介のOLの給料ではおいそれと来れる場所ではないので相場ははっきりわからないが、少なく見積もっても一泊で月給くらいの価格はとられる部屋に違いない。ワインも同じような感じだろう。

ただ偶然に再会した同級生と語らいをするためにしてはあまりにも手が込みすぎている。混乱した頭がようやく冷静さを取り戻し、ことの異常さに不安な気持ちを抱き始めた千種に対し、さてと、と茉莉子はソファーの背に身体をもたせかけた。

「さて、それじゃ本題に入りましょうか」
「本題?」
「千種さん、あなた今の仕事を辞める気はない?」

思わず持っていたグラスを取り落としそうになった。じっと見据えるような視線を正面から送られ、千草は自分の指先が小さく震えだしたのがわかった。
おそらくわざとそうしたのだろう、茉莉子は千種の反応をじっくりと確かめるように長い間をおいてから、場を弛緩させる笑顔を作った。

「誤解させる言い方だったかしら。私は何もあなたをクビにしようってわけじゃないの。ただ、あなたは今自分の仕事をおもしろいと思っているかどうか聞きたくて」
「そ、それは…。いえ、仕事ですし」
「やりがいがあるわけではない、ってことね」

言葉を遮られるように強く言い切られ、千種はうつむいて口元を両手で覆った。指先だけだった震えはいつの間にか全身に伝わっていて、まともに声も出せそうにないくらいだ。

「怖がってるようね。何を恐れてるの?私の意図がわからないこと?」
「あ、あの。はい。いえ、」
「思ったとおり。千草さん、あなたしばらく会わないうちに随分変わってしまったみたいじゃない」

怖いのは相手の意図がわからないこともそうだが、何をどう答えてよいかわからないことだった。学生から社会人になって千種は、自分はこれまで世の中をうまく渡ってきた自信があった。入学試験や就職試験の面接、あるいは上司や同僚、友人や恋人との話し合いにおいて、相手が今どういう言葉を欲しがっているか、自分に何を期待しているかということを鋭く察知し、はそのように振舞うことがうまくなっていた。
そうすることは慣れてしまえば非常に楽な行動で、その力で今まで周囲の人たちからかわいがられ、よい評価をもらえてきたようなものだった。

しかし今、目の前にしている相手が何を求めているのか、どういう返答を望んでいるのか全く千種にはわからなかった。かといって自分に関心がないわけでもなくその逆で、まるで一挙一動を仔細漏らさず見張られているような、強烈な視線を感じる。

視線?

千種ははっとして顔を上げた。
正面には相変わらず微笑んだ表情のかつての同級生の顔がある。
もしかしたら、この人はあの頃から本当は少しも変わっていないんじゃないかという気持ちが千種の中をふっとよぎった。

「中学の時、初めて私に話しかけてくれたときのこと、覚えてる?」
「………」
「あの時あなたに言われたこと、私は一度も忘れたことはなかった。その言葉を頼りに私はここまで来たようなものなの。感謝するわね、ありがとう」
「……」

茉莉子は立ち上がると千種の腕を取り、背後の広い部屋の中央付近へと移動させた。そこに千種をぽつんと一人棒立ちにさせるようにすると、自分は数歩下がってソファーの背に腰を下ろす格好を取る。

「仕事、辞めたかったらやめていいのよ。私が個人的にあなたを雇ってあげる」
「?」
「もちろん辞めなくてもいいわ。あなたの好きな方を選んでいい。ただし、本気で逃げ出さない限りは条件は変わらないけど」

茉莉子は腕を伸ばすと、千種の着ているブラウスの一番上のボタンを指先ではじくような仕草をした。

「見せて。あなたの全部」
「ちょ…それって」
「拒否の選択はなし。本気で逃げるか、従うか。どちらかだけ」

本気だと思った。千種は自分の喉元をぐっと握り締め、次第に早くなってきている自分の鼓動を感じていた。その間にも自分に向けられる視線の強さは緩められることもなく、次第に痛いとさえ思えるくらいになっていた。

不思議な気持ちだった。確かに視線は痛くて重くて、まともなものではないというのはわかっているのに、それは決して苦痛なものではなかった。むしろ反対にこんなにも全身隈なく浴びせかけられるような感情の渦は、巨大な水の流れを前にしている気持ちにも似て、身を任せてしまえば心地よさすら覚られるのではないかと思える危険な誘惑をはらんでいるかにも思えた。

「……何をすればいいの?」
「そうね。手始めに全部脱いでみてよ。今ここで、私の目の前で」

最初のボタンは外れ、滑り落とすように千種は着ていたものを順に床に置いていった。最後の下着を足から抜き指先で投げ捨てると、茉莉子が小さく息を漏らした音が聞こえた。

「きれいね。すごく」
「そう思っているのは、あなただけなんじゃないの?」

丸裸になってみると開き直りに近い気持ちになれるものなのか、千種は初めて相手の目を正面から見返すことができた。そうされた茉莉子はいかにも満足そうに目を細めると、ゆっくり千種との距離を縮めて数歩前に出た。

かざした手を肩のラインをなぞるように動かしてから、茉莉子はそっと千種の胸に両手を乗せた。直立のままの千種の肌の感触をしばらく確かめるように触れてから、甘くついばむようなキスをした。

「これからは、ずっとあなたを見ていてあげる。私があなたを。あなたの何もかもを」

長いキスの途中で聞こえたため息混じりの声に、千種は懐かしい景色を思い出した。夕暮れの放課後、二人きりの教室で、泣き出しそうな顔をしていた茉莉子の顔が浮かんできた。

*****

「どうして私のことばかり見てるの?」
「それは…ご、ごめんなさい」
「謝れってことじゃないの!別に見るなって言ってんじゃないんだし」

しどろもどろに赤くした顔をうつむかせる茉莉子を見て、軽くイラっとした千種は「ねえ!」と机を強めに叩いた。

「見るのはいいの。減るもんでもないからさ。ただ、そういう態度取られるとこっちもうっとうしいって思っちゃうでしょ」
「でも、私…」
「あーっ。だからぁ、見てもいいから卑屈な視線だけは送んないでって言いたいの」

一瞬びくっとなったあと、きょとんと目を丸くして茉莉子は千種の顔を見た。このとき初めて千種は茉莉子の顔をよく見て、なんだ意外とこの子かわいい顔してるじゃないかと場違いな感心をしたのだった。

「私、ちゃんとする。わかった、うん」
「たく。そーいうのともちょっと違うんだけどさ。ま、いいか」

立ち去り際、取り残すようにした茉莉子を一瞬だけ振り返って見た千種は、その瞳が不思議に強い光を持っているように感じた。そのときにははっきり自覚はしなかったが、自分の中に持ち上がりかけてふと消えた、かすかな衝動があったことを思い出した。

別々の大学に進学し、茉莉子の視線が届かない場所に行ってから、千種は自分が徐々に何かをなくしてしまっていったことに今ようやく気がついた。

肌をなぞる舌の動きに身体をのけぞらせると、千種は喉元からこみ上げてくるものを感じた。押しとどめず息を漏らすと、思いのほか大きく声が出た。
長く忘れていた、演技のない声色だった。

【Fin.】

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