だからそんな顔しないでよ【真矢まひ】

劇場版のあとの新国立第一歌劇団に入団してからのまひると真矢のお話です。
NTR要素あります。描写はゆるめ。地雷の可能性ありますのでお気をつけてお読みください。

「おはようございます」
「おはよう」

背後から誰かが挨拶を交わす声が聞こえて顔を上げた。
更衣室から同僚が2人で楽しげに会話をしながら入ってきたのを見てまひるはストレッチを中断する。

「早いね。汗びっしょりじゃない」
「あ、はい。なんか早く目が覚めちゃって」

まひるが時計を見るとここに来た時から40分以上が経過していた。
新国立第一歌劇団が所有するトレーニングルームは大きなビルの中にあり、窓の外からは都会の町並みを一望することができる。
団員は自由に使用をすることができる場所であり、高校時代からの習慣で毎朝早くからここで運動をするのがきまりになっていた。
とはいえ今日は朝からする運動としては少しハードすぎたかもしれないと思いつつ、汗を拭きながら備え付けのウォーターサーバーから小さなコップで水を飲んだ。

「あ、そういえば聞いた?天堂さん、今度の舞台の主演になるみたいだよ」
「ホント?まあ全然意外じゃないけど、やっぱりすごいね」

双葉とともに聖翔音楽学園から三人で入団をしてきたわけだが、やはりというか真矢は当初から団内での扱いが一段上という感じがしていた。
本人はそれをひけらかすようなことは全くしていなかったものの、同期として入団してきた人たちが一歩引いて接することもあってか入団後は少し距離を感じてしまうこともあった。
今同僚たちが噂話をしているのは近々キャストが発表になる予定の【トレント】という舞台の話で、定期的に行われる有名演目なだけに今年はどういう方向で演出されるか内外で話題になっていたところだ。
同僚二人はそれから盛り上がって会話を続けていたがまひるは少し居心地が悪くなってその場を立ち去ることにした。
今日はこれから身支度をして劇団の事務の仕事をしにいかなければいけない。
飲み干した紙コップをクシャっとつぶしてゴミ箱に入れると、できるだけ二人に気付かれないようにそっと部屋の出口へと向かった。

「おはようございます」

はっと目線を上げると、そこには真矢が自分を見下ろすように立っていた。
間近に目があって、一瞬頭の中の思考がふつっと切れたように止まる。

「どうかしましたか?」

真矢にかけられた声に意識を取り戻し、まひるはとっさに愛想笑いを浮かべ返した。

「おはよ。今日はいつもよりゆっくりだね」
「ええ、ですが少しでも体を動かしておかないと何だか落ち着かなくて」

丁寧な口調。上品な笑顔。
高校時代から全く変わらない超然とした態度で見つめられる。
まひるは自分の額から頬にすうっと汗が流れて落ちるのがわかった。

「じゃ、私はこれからお仕事に行かないといけないから。頑張ってね、天堂さん」
「はい。ではまた後ほど」

姿勢良く真矢はまひるの横をすり抜けていく。
窓際のバーのところまで移動すると、ゆっくりと体を反らせてストレッチを始めた。
その姿を見た同僚たちが思わず噂話をする口を止めて息を呑んだのが見える。
一挙一動で部屋の空気を変えるその存在感から逃げるようにまひるはロッカールームへと向かう。

昨日の夜。
まひるは真矢と寝た。
先程すれ違いざまに聞こえたかすかな吐息が昨夜耳元で聞いた生々しい吐息の記憶を一瞬蘇らせ、脳天から突き抜けるようなしびれが足元まで突き抜けた。

*****

まひると真矢はもともとは「普通の友達」だった。
二人が出会った聖翔音楽学園では常に間に西條クロディーヌという存在があったし、現在でも双葉を加えた三人で関係のバランスがとれている。
在学中は特別に相手のことを友人以上と意識するようなこともなかったし、かといって距離をとりたいと思える悪い面を感じることもなかった。
その適度な緊張と安心の空気感がお互い心地よかったのか、劇団に所属してから自然と親身な打ち明け話などをするようになっていった。

クロディーヌが卒業してすぐフランスの「テアトルドゥフラン厶」に入団したことで二人のバランスに変化があるかとも思ったが、双葉がまめにクロディーヌと連絡を取り合っており逐一その様子が伝わってくることもあり、あまり遠くに行ってしまったという実感はなかった。

劇団に入って数ヶ月した頃だったろうか、真矢からクロディーヌと付き合ったことを聞いた。
他には誰にも言っていない、と少しはにかんだ笑顔で告げられて思わずまひるも顔を赤くしてしまった。
どこまで二人の関係が進んでいるかということまでは踏み込んで聞き出すことはしなかったが、だいたいのことは予想がついた。
普段の態度とは全く違った真矢の嬉しそうな笑顔を見れば二人が卒業後どういった気持ちを持つようになったかわからないわけはなかった。

*****

「ねえねえ露崎さんて天堂さんと同じ聖翔出身でしょ。普段から仲いいよね」

劇団のオフィスに出勤をしてまもなく、今朝の二人とはまた別の同僚が話しかけてきた。
まひるが到着したときの周囲のざわめきから、真矢が主演になるのではという噂がすっかり団員に伝わっているらしいことを察する。

「うん、ずっと同じ寮で生活してきたし。今もよく一緒にでかけたりしてるよ」
「いいよねー。天堂さんはこれから劇団でも主力になっていくだろうし、業界関係者にも顔が広いもんね」

高校時代はそれほど意識する機会はなかったが、天堂家といえば今の演劇界で絶大な力を持つ有名人を多く輩出している。
真矢のことを「サラブレッド」という人は多くいたが広いようで狭い演劇界においてその意味を遅まきながら実感することになった。
もっとも真矢本人はそのように言われることも家柄というコネで役を得ることに対しては否定的な態度を取ることが多かったのだが、どうしても大きな役を得たときには周囲はその裏にある事情を勘ぐろうとするものだ。
この同僚からの一言も、本心から真矢のことを褒め称えているというよりもはっきりと形にしないやっかみも少々含まれているのを感じた。
そんな会話をしているとまた別のざわめきが奥から聞こえてきた。
まひるが振り返ると、廊下の向こうからまっすぐ顔を上げて歩いてくる真矢の姿が見えた。

「おめでとう!天堂さん。いきなり【トレント】の主演に抜擢ってすごいね」
「皆さん随分気が早いですね。まだ正式な決定はされていませんよ」
「またまた、昨日エグゼクティブ・プロデューサーから直接打診を受けたんでしょ?発表待ちなだけじゃない」

リップサービス半分か本心か、先程まで井戸端で噂話をしていた人たちが次々に真矢に近づいて興奮気味にそんなことを言った。
まひるはその輪に入っていくのがなんとなくためらわれて、できるだけそちらを見ないように事務作業用のパソコンモニターへ体を向ける。
が、どうしても背後の会話が気になって作業に集中できない。
書類の数字をのろのろと入力していると不意にざわついた会話が途切れて背後からコツコツ、と足音が近づくのがわかった。

「露崎さん、少しよろしいでしょうか」
「あ、はい!何でしょう」
「実は広報用の資料作成を手伝わなくてはいけないのですが…一緒に作業をしてもらえないでしょうか」
「わかりました。すぐ行きます」

新国立第一歌劇団では、入団して数年くらいは事務作業の手伝いなどをすることになっていた。
それは入団直後から主役級の実力を認められている真矢であっても例外ではない。
とはいえこの時期に手伝いが必要なほど面倒な業務を任されるものだろうかとは少し疑問に思ったものの、そこは指摘せずにまひるはできるだけ平然と会議ブースへと向かった。

*****

「ねえねえ、まひるは誰か付き合っている人はいないの?」

数週間前にクロディーヌが日本に来たとき、久しぶりに聖翔OGで集まって食事をすることになった。
その時他の人が席を外して二人きりになったとき、クロディーヌが不意にそんなことを聞いてきた。

「うーん、どうかな。今はよくわかんないかも」
「わかんないって何よ。まあ華恋とはさすがにって思うけど、まひるにだって色々思うところはあるでしょ」

全く考えていないというわけではなかったが、今は劇団での練習や役を得るためのオーディションが充実しすぎていてそれどころではないという感じだった。
にしても在学中にはクロディーヌと直接的にそういった類の会話をしたことがなかったので、急にそんなふうにふられたことにかなり驚いた。
まひるはすぐにクロディーヌの様子から、何か話したいことがあるんじゃないかと思った。

「クロちゃんは、誰か好きな人がいるの?」
「うん、まあ。」
「もしかして、天堂さん?」
「…」

はにかんだように笑うクロディーヌの顔をまひるはこれまで一度も見たことがなかった。
その顔を見ながら私は少し不思議な気分にもなった。
羨ましいとか妬ましいとかいう気持ちではない。
正直に言えばむしろ冷静に、ああそうかと他人事としてそのことを受け止めることができた。

「いつ頃から?」
「わりと、つい最近」
「じゃあこれから本格的に付き合うんだ!」
「どうかしらね?あの子、あんまりベタベタした付き合いとか好きじゃなさそうだし」
「ふふ、のろけ話楽しみにしてるね」

どうして自分にだけそんな報告をしたのかまひるはよくわからなかったが、多分クロディーヌは誰かに言いたかったんだろうと思った。
そんな信頼感を少し嬉しく思いつつささやかに乾杯をしたところで席を外していた他のメンツたちが戻ってきた。
クロディーヌとこんなふうにこっそり恋愛話をするとは高校時代には全く想像していなかった。

*****

「どうもすみません。急に呼び出してしまって」

真矢に誘導されて会議室に入るとすぐ扉を閉め、数秒周囲に立ち聞きしそうな人の気配がないか確認をしてから二人は向き合った。
申し訳なさそうに頭を下げる真矢は呼び出したことだけを謝っているわけではないのだろう。
まひるは謝罪に対してどういう態度をとればよいのかわからず、少しの沈黙を置いて真矢の肩に触れた。

「天堂さんが謝る必要、ないんじゃないかな?」
「そうでしょうか」
「うん、たぶん」
「こういうことになってしまったこと、ご迷惑ではありませんか?」
「迷惑だなんて。私は別に気にしてないです」

困惑を隠さない真矢に対してつい敬語になってまひるは言った。
見ると会議室の大きなテーブルの上にはいくつか軽作業用の道具が置かれており、手伝ってほしいと言った先ほどの言葉はまるっきり嘘ではないとわかった。
二人だけの部屋で向き合っているのも間が持たないので、とりあえず与えられた作業はやってしまおうということになって二人はテーブルの角を挟む形で座る。
作業はちょっとした切り貼り折りといったものだったので、分担を決めて手先を動かし始めた。

「天堂さんはどうしたいの?」
「私…ですか」

できるだけ感情を込めないようにまひるは真矢につぶやいた。
間近で見るきれいな横顔がうつむき、作業の手を止めて唇の近くに指を添える。
同時にさらりと耳にかけていた髪の毛が前に落ちかかった。
不安になるくらい長くそうしていたので、まひるは答えづらい不毛な質問をしてしまったかなと少し後悔をした。

「ごめんね。その、私てっきりもう天堂さんの中で答えが決まっていて、今日はそれを伝えに来たのかなって思ったから」
「いえ。言われてみれば答えをきちんと出してから呼び出すべきでしたね。貴重なお時間を頂いて申し訳ありません」
「でも、それなら今日はなんで私を呼び出したの?」
「それは…とりあえず謝りたくて」

本心からそう思っているらしく真矢は神妙な顔つきでうつむいた。
いつもの姿勢の良さはどこへやら、叱られた子供のように背中を丸めて下を向いてしまっている。
緊張感のある場面であるはずなのにそれを見ているうちに微笑みそうになってしまうのをこらえてまひるは手元の作業に戻った。

「謝る必要なんてないのに。気にしないで」
「その、露崎さん」
「なに?天堂さん」

作業の最後の一つを引き寄せようとしたところでその紙切れの端を真矢が掴んで止める。

「露崎さんがよければ、今日仕事が終わってからどこかでお話しませんか?」

少し意外な展開だなと思ったけれども、全く断る理由はなかった。

*****

聖翔音楽学園で進路を決めるときにクロディーヌが日本を出ていってしまうことをまひるは不思議に感じていた。
理由を聞けばあちらで良い条件の推薦をもらったということや演劇や舞台をとりまく国際的な事情から至極最もな決断だとは思うのだけど、それでも一緒に過ごした聖翔での思い出を置き去りにして遠く旅立っていくということがなんとなく腑に落ちない部分があった。
それを言ったら純那やなな、ひかりだって国外に活躍の場を求めていったのだし全員に対してそう思うべきなのだろうけど、まひるにとってはクロディーヌの行動だけがしっくりこないしこりのようなものを残していた。

卒業をして最初の一年めに長期休暇で日本に来たクロディーヌと新国立第一歌劇団入団組の三人で会った。
たった数ヶ月だったけれどもパリジェンヌになったクロディーヌはより垢抜けた印象になってはいたが、基本的には変わっていないと思って安心をしたりもした。
今更ではあったがまひるはクロディーヌを本当にきれいな人だと思った。
真矢とは全く違った種類の美しさを持つ人。
毅然として、本人は隠そうとしているらしいのに時折漏れ出てしまう生まれ育ちの良さ。
これまで生きてきた中でおそらくは繰り返し見舞われてきたのだろう妬み嫉みからの攻撃をかわすために身に着けたと思われる落ち着いた雰囲気。

一見つっけんどんで他人に興味がなさそうな真矢がこの人のことは好きになったという気持ちを全く訝しむことはなかった。
真矢とて生まれ持った出自や環境、容姿のために、さして親しくもない人たちから意味のない攻撃を受けることがしばしばあったはず。
真逆に思えるような性格の二人も一皮むけば心地よいほど共通した部分があるのだろうと第三者であのまひるの目からは見えた。

裏返せば、自分には踏み込めない二人だけが共有しているものがあるんだろうなとまひるは思った。
だからそんな二人はこれからもずっと一緒にいて、私はそんな二人を壁一枚隔てたところから見守っていくことになるのだろうなと思っていた。

「クロちゃんは、天堂さんと離れていて不安じゃないの?」
「不安?別に、あいつのことはそうでもないわ。それより…」

いつものように自身ありげに目を光らせてクロディーヌは言った。

「戻ってきたときあいつはもっともっと大きくなってるだろうから、それに負けることの方が不安ね」

クロディーヌの強さは、この自分の信じるものを本気で信じることができる心にあるんだろうな。
まひるはそう思って「頑張ってね」と笑顔を向けた。

「まひるだって頑張るのよ」
「私?うん、私も天堂さんに置いて行かれないようにしなきゃね」
「天堂真矢もそうだけど、私もね」
「クロちゃん?」
「私はまひるのこともライバルだって思ってるんだから」

もちろん双葉もね、とクロディーヌは笑って言った。
まひるは一瞬ドキっとしたが、その言葉になにか含みがあろうはずもないと思い直した。

「私が留守の間、あの子のことよろしくね」
「よろしくって…」
「戻ってくるまで、待っててね」

最後の「待ってて」は自分に向けてのものなのか、それとも素直に言えずにいるかもしれない真矢に対してのものなのか。
まひるはあえてはっきり聞き返すようなことはしなかった。

*****

真矢の部屋に入って最初に注いだグラスが空になるよりも先に二人は唇を重ねていた。

お互い仕事とレッスンが終わってから待ち合わせをするということを約束していたのだが、その日はなんだかんだとズルズルと時間を引き伸ばし落ち合った頃にはすっかり夜も遅くなっていた。
自分自身そんなつもりはなかったものの、口に出さない感情が会う時間を少しでも遅くさせてしまっていたのかもしれなかった。
会ったらよくないことが起こるような気がしてか。
それともその逆で。

しんと静まり返った部屋の中で、近づいた体の衣擦れの音が妙に大きく聞こえた。
真矢のキスは昨日の遠慮がちな様子がなくなり、より大胆に強引なものになっていた。
まひるよりも背が高く、よく引き締まった体の真矢に腰を引き寄せられるとぐっと体がのけぞった体勢になり慌てて肩口に手を添えて軽く押し返した。

「待って。ちょっと待って」

額が触れる距離で見つめ合った真矢は、まるでおあずけをされた小さな子どものような目をしていた。
甘えているかのようにも見える反面、許可が出たら今にも飛びつきそうな危険な雰囲気もあった。

「何かやり残した用事でもありましたか?」

だけども口調だけはいつもと同じく超然と落ち着いた様子を保っていて、まひるは少し笑いそうになった。
何年も一緒にいたはずだったけれど、真矢に対してこんな気持になったのは初めてだと思った。

「ううん、そうじゃないけど。でもほら明日は休みでしょ。そんなに焦る必要ないかなって」

真矢の恋愛経験についてクロディーヌ以外とのことはよく知らないが、今までは自分の方が子供で経験が浅いものとまひるは思い込んでいた。
なのに今この瞬間は自分の方が経験達者な大人のような態度で相手のことをなだめているということが不思議だった。

「すみません。そうですね、少しがっつきすぎたでしょうか」
「大丈夫だよ。気にしないで」

頬に触れた手を更に少し高く上げて、まひるは真矢の頭を軽く撫でた。
自分がリードをしているのか、それとも真矢の作り上げた「役」によって自分がそうさせられてしまっているのか、まひるにはよくわからなかった。

*****

抱き合っている時の真矢は優しかった。
二人で過ごしていると、ついさっきまで普通に会話していたと思ったら突然情熱的にキスをしようとせまってくる。
その一瞬の豹変も何度か経験するとむしろおもしろく感じられて、軽く拒絶するような仕草をしたときの悲しげな顔もまた言葉を交わさないささやかな駆け引きとして心地よく心を刺激した。

休日をたっぷり使って二人だけの時間を過ごして夕方頃に解散をして自分の部屋へと戻るとき、まひるは自然と自分の顔がにやけてしまっているのを感じた。
その日にした会話や触れられた時の感覚など一つ一つ思い出してなぞる作業は、さながらしまってあるお気に入りのコレクションを一つ一つ取り出してピカピカになるまで磨いてはあるべきところにしまい直すかのようだった。
それと同時に、自分がいなくなった部屋の中で真矢はどうしているだろうかと少し心配になったりもした。
だけどもきっと真矢のことだから、まひるの心配などどこ吹く風で冷静に家事をしたり明日からの舞台のレッスンのことでも考えているのだろうと思った。
舞い上がっているのは自分の方だけで、あちらはもっと冷めた気持ちで割り切ってクロディーヌのいない時間を埋めるための暇つぶしと思っているに決まっている。

そこまで考えてふと、まひるは自分が真矢ことをどう思っているのか疑問に思った。
だけどもそのことを考えた途端、さっきまでキラキラと輝いていた温もりの記憶がスーッと冷めていくような気もした。
先程までにやけていた自分のことが急に恥ずかしくも思えてきて、まひるはそれ以上考えるのをやめた。

自分の彼女への感情は、あのしなやかで長い指先と洗練された香りの長い髪、ざらついた舌先と引き締まった腰のライン。
それを刹那に与えられているだけで十分で、それ以上のものは求めたいとも思わなかった。

*****

ささやかな逢瀬を楽しむようになって2週間もたった頃だろうか。
いつもの平日業務をこなした夕方に、突然クロディーヌからのメッセージが届いた。
取り出したスマートフォンの画面上部に通知された文字には、短く「来週帰国する」とあった。
グループに一斉送信したものらしく、数秒後には続けてポンポンと別のメンバーからの返信がついていく。
慌ててまひるも画面を開くと、楽しそうに会話が続いていく様子が見えた。

「随分急じゃないか?日本に何か用事ができたのか?」
「そうなの。今度劇団で日本公演の企画があるから一緒について来ないかって誘われて」
「すげーな。さっそく企画ブレーンかよ」
「だといいけどね。半分通訳みたいなものかもね」

主に双葉が応対しているようで、事情やスケジュールが自然と目に入ってくる。
遅れないように何か自分も打ち込まなきゃと思ったところで別のメッセージが二人の会話に割り込んできた。

「嬉しいです。お待ちしていますよ、西條クロディーヌ」

入力をしかけた指が止まったと同時に、すぐにまたそれに対しての返信があった。

「私もよ、天堂真矢」

そのメッセージを見て、まひるは深く深く息を吸い込んで吐き出した。
そして改めて画面に向き合って指を動かす。

「ふふ、二人とも相変わらずだね」

私も楽しみ、と続けて打ち込んで送信ボタンを押すまで数秒時間がかかった。

*****

空港で出迎えたクロディーヌは以前よりも少し日焼けしているように見えた。
南フランスで公演があったと聞いていたので、地中海でくらかの日にちを過ごしたからだろう。
やや褐色がかった肌色は元来からの明るく華やかな雰囲気にさらに磨きをかけていて、初めて会った人なら誰でも振り返って彼女を見るだろうというほど眩しかった。
クロディーヌは劇団の人たちとは別便で渡航するそうで、ちょうど予定が空いていた真矢とまひるが二人で出迎えに行くということになった。
飛行機が到着するまで空港のロビーでまひると並んで座って待っていた真矢は特に何を言うわけでもなく、普段レッスンやオフィスで見かける時と同じように物静かな雰囲気をしていた。
フランスからの長距離便はいつもならば遅れがちになるところ、その日は何もかも予定通りに日本に着くという案内が電光掲示板に表示されていた。

ロビー正面についている日にちと時間が表示されている時計を見上げて、まひるは先週のこの時間自分は真矢の部屋にいたなと思い出した。
来週こうして並んで飛行機の到着を待つことになるとも知らず、二人だけの時間を無邪気に楽しんでいたということが複雑な気持ちにさせた。

時間が近づいたのでタラップからの出口付近に移動をすると、間もなく満面の笑みを浮かべたクロディーヌが走り寄ってきた。
まひるが何か挨拶をするよりも先に、クロディーヌは真矢の名前を呼んで飛び込むかのように抱きついた。
今までには見せなかった直接的な愛情表現に真矢は一瞬戸惑ったようだったが、すぐに遠慮がちにだけども力強くその腰と背中を抱きしめ返した。
誰よりも眩しい光を放つ二人が抱きしめあった光景は、まるで空港内の空気をすべて二人の周りに吸いこんでしまうかのようにすら思えた。

抱き合った体がようやく離れる瞬間、名残惜しそうに真矢の手先がクロディーヌの腰の近くを艶かしくなぞり動いたのをまひるは見た。
そして同時にその仕草に覚えがあるなと思った。
今クロディーヌを抱きしめているのと同じ手付きで、先週の同じ時間に自分もそうして抱かれていたのかと。

そのことが二人がどうしようもなく恋人なんだということをまひるに強く実感させた。

「じゃ、これからどこ行く?まひるも一緒に来るでしょ」

無邪気にクロディーヌが笑った。
まひるはできるだけ真矢の顔を見ないようにしつつ、少し考えるふりをした。

「ううん、私は遠慮する。だってせっかくだし二人で会えたんだし。私は次にする」
「でもここまで来てくれたのに」

しゅんとしたようなほっとしたような。
クロディーヌがなんとも表現しづらい表情をしたのを見てまひるは軽く肩を叩いた。

「そんな顔しないで。私は元気なクロちゃんと会えただけで十分嬉しいんだから」

精一杯のまひるの笑顔に小さくありがとう、とクロディーヌはつぶやき真矢の手をとった。
そしてはにかんだ顔を向けて続けて言った。

「まひるは相変わらずね。あの頃から変わってない」

握った手をそのままに、クロディーヌは真矢と並んで歩き出そうとした。
その一瞬、真矢がちらりとまひるの方を振り向いて目を合わせた。

「だからそんな顔しないでよ」

まひるはクロディーヌに聞こえないように、小さく真矢の横顔に向けてつぶやいた。



【終わり】

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