ウソを見破るコツはついているウソが一つではないと知ること

真実を知るために相手の心の闇に触れる

なんとも中二心をくすぐるタイトルからスタートしますが、今回は冒頭の書籍を読んだ読書感想文を書いていこうと思います。

また、罪を犯す人間には、それなりの理由があります。もちろん、罪を犯したことは悪いことです。しかし、人には言えない悩みやストレスがきっかけで、犯罪に手を染める人間もいるのです。つまり、被疑者の「心の闇」に触れなければ、どうしても真実は明らかになりません。

「元知能犯担当刑事が教える ウソや隠し事を暴く全技術」P.82 日本実業出版社 森透匡著 

先にこの書籍についての全体的な感想をざっと述べると、著者はかつて知能犯や経済犯担当の刑事として約20年間のべ2000人以上も取り調べ・事情聴取をしてきた経歴のある方だそうです。

この「知能犯」というのは詐欺・横領・贈収賄・選挙違反などといったもので、そこで取り調べをしていくときにどうやって否認をする相手に罪を認めさせるかということを考えた経験をまとめてくれています。

まあ本のタイトルこそまるで「こうすればウソをついている相手の心がわかるようになる」かのようなものですが、内容的には著者個人のエッセーというか自分語りが結構な量を占めておりますのでもしこれから読もうと思っている方は実用書としてではなく読み物として捉えた方がハズレと思わずに済むのではないかと思います。

さてそれはそうとして、引用部分についての説明をしていきます。

上記の文章は、被疑者と対面するときに上から「罪を認めさせてやる」という目線ではなく、被疑者にとって信頼できる人物であるとまず思わせることが大切であるということを述べるくだりで登場するものです。

犯罪をしたという事実は同じであっても、それを行うまでの過程があるわけなのでいきなり問い詰めるよりもまずは相手の言い分を傾聴してその延長で罪の事実を認める方向に持っていくことができるかというところがポイントなんだそうで。

わりとありそうな話ですが、文章の使い方として「心の闇」に触れるという言い方が私の中の中学二年生をくすぐったので紹介をしてみました。

また犯罪というのは本当に一回目の初犯だけで捕まるケースというのは少なく、大抵の場合は繰り返すうちにどんどんエスカレートしていってそこで発覚をするものだということで、そこに至るまでどういう理由があったのかを否定せずに尋ねていくうちに余罪を含めて話すようになっていくということも内容にありました。

ついているウソは本当にそれだけ?

ということを踏まえて考えると、逆に言えば目の前に「ウソをついている」とわかる人がいた場合、そのウソは今わかっているウソだけでなくその他にも多くのウソが裏にあるというふうにも予想ができると言えます。

書籍の中でも、証拠となる物証をつかんでもいきなり目の前に突きつけるようなことはせずにその存在を匂わせるようにしていくことで、相手が自分からその他のウソの存在がわかるようなことを言い出すようになるとあります。

刑事もののドラマとして私が以前よく観ていた「LAW&ORDER」シリーズの中でも犯罪心理捜査班はその辺うまく表現してて、犯人がイライラするようにしむけていたシーンがあったなあと思い出します。

実際に逮捕をされたことはないのでわかりませんが、もし刑事や警察官から何かイライラするようなことを言われたら、それは何か隠していることがないか探られているのだと考えててもいいのかもしれませんね。

「切り札は最後まで見せるな」というこれまた中二っぽい言葉も、あながち単なるポエムではなく見せるべきタイミングまでとっておくべきという尋問のコツが裏にはあったんだなあと思いました。

よく心理読み物などでウソを見破るコツとして相手のしぐさや生理的反応(顔色や汗など)でわかるようなことが書かれていたりしますが、あまりそれだけに頼るのもうまくないんじゃないかという気もします。

なぜなら相手の反応だけを読み取るということは、結局相手の心理の動きを見ているのではなく自分の考えが先にあって「そう」か「そうでない」かどっちに当てはまっているかを見ているにすぎないからです。

一番やっつけたいと思う相手に対して最大の攻撃をしようと思ったら相手の心理に一体となって信頼を勝ち取ってからするものだということであれば、なんと非常に危うく、またロマンのあることでしょうかね。

言葉による決めつけによる不信感

この先は書籍の内容から少し離れた私なりの今の考えになります。

行った行為だけを見ると、「人の物を盗んだ」=「泥棒」です。「人を殺した」=「人殺し」です。また、「幼い女の子にいたずらをした」=「変態」と言い方を変えたりします。

「元知能犯担当刑事が教える ウソや隠し事を暴く全技術」P.128 日本実業出版社 森透匡著 

実はこの部分が一番この本読んで自分的に刺さったところだったりします。

以前「『女』じゃなく『あなた』が好き」というセリフについて批判的な考えをブログにちょっと書いたのですが、そのことについて今一度この文章を読んで考え直しているところです。

私達は普段ニュースなどで犯罪行為について見聞きすると、それをした(と思われる)人のことを安直に「悪人だ」と決めつけをしてしまいます。

上記のように簡単に「泥棒」「人殺し」「変態」といった言葉で相手にラベリングをしてしまいがちですが、犯人にしてみれば「物を盗んだけど自分は『泥棒』ではない」というように行為に対してのラベリングを拒絶する傾向があるとこの本では言っています。

確かに盗むという行為は同じでも、それをどういう理由やチャンスで行ったのかはケースごとに違いますし、結果だけで他の重篤な犯罪者と一緒にするな、自分だけは違うという気持ちになるのはなんとなくわかるような気もします。

それは後ろめたさから本能的に拒絶しているだけかもしれませんし、プライドや過去に自分と関係してきた人間関係に対する言い訳の意味があるかもしれません。

で、考えたのがもしかして「『女』じゃなく『あなた』が好き」といちいち言いたがる心理というのは、「私はたまたま同性を好きになったけど『レズ』ではない」というラベリング拒否が関係しているのかなあということです。

私個人が以前述べた考えでは、たまたまも何も今同性に対して恋慕の情を抱いているのであればそれは「レズ(ゲイ)」以外の何者でもないというラベルの押し付けをしていたように思います。

私自身としても面と向かって「お前はレズだ」と言われれば多少はムッとしますが、もう自分のセクシャリティについては考え過ぎるくらいに考えて否定するのも面倒くさいレベルになりましたので、言われることについてはムカついてもそれ自体は受け入れるしかないという諦めを持つようになりました。

ですがそうでない人は大勢いるわけで、同性を好きになったなら状況がどうであれラベリングも甘んじて受け入れろというのは無能な刑事が「さっさと吐け!この泥棒野郎が!」と椅子を蹴り上げているに等しいわけです。

最近は何かとセクシャリティについて呼び方が増えてきていて、何かストレートな恋愛以外の気持ちを表現した人に対してあれこれラベリングをしたがる人が増えている傾向も感じますが、本人にとってそれがどういう過程でどういう意味なのかということを考えれば安直な言葉でまとめるというのはどうかなあという気もします。

※自分が何者かわからないという人が自分にしっくりくるラベルを見つけて安心するというのはまた別の問題です。

私自身の考えは考えとしてあるものの、もう少しイライラせずに誰かの発言について深く考えてみてもいいのかなあと本を読みながら考えた次第です。

もっと大勢の人の心の闇に触れてみたいものですね。

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