プロローグ~運命の日まであと0日
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
眼の前で弾けてほとばしった鮮血が視界を赤一面に染める。
さっき殴られた頬と奥歯の痛みも忘れて、その異様な景色を前にあたしは呆然とへたりこんだ。
薄く開いたままのボロい玄関ドア。隙間から見える細雪。
怪しく白い光を反射させる出刃包丁。伝い落ちるどす黒い液体。
何かを言いかけたクソ親父の口元からゴボゴボと不快な泡が湧き上がり、やがて静かになった。
強烈にあたしの脳裏に焼き付いた光景。
あたしはガクガクと力の入らない足元を強引に立ち上げ、玄関先に立ち尽くしていた琥珀が握りしめたままの凶器を奪い取った。
振り向いた時には無様に床に転がったクソ親父は既に身動きも取れない様子だったが、あたしは握りしめた包丁を両手で逆さに構え、その胸に力いっぱい突き立てた。
しん……と静まり返ったアパートのキッチンの床にじわじわと汚い血が広がっていき、ああ、これはもう元通りにすることはできないんだなとあたしは実感した。
あたしは琥珀と出会って、これまでのクソみたいだった自分の【運命】が変わっていくんじゃないかって感じた。
あたしにとってのこの世界は、妹の存在以外に何一つとして守りたいと思えるような大切なものなんてなかった。
それはあたし自身の心や体だって同じで、あたしという存在に一体なんの意味があるんだろうと思いながらつまらない毎日を送ってきてた。
だけど琥珀はそんなあたしのことを気にかけて、ちゃんとありのままを見てくれた。
好きだと言ってくれた。
琥珀と気持ちを通わせた日から、あたしの人生は少しずつでも確実に上向きになっていたはずだった。
くだらない授業も学校生活も、毎日毎日繰り返されるだけの単調な仕事も、その中にほんのちょっとずつ意味が見いだせるようになってきてて。
きっとこの先の未来は明るく、いいことが増えていくに違いないってガラにもなく楽天的な考えをするようになったんだ。
だけどもそんなあたしの能天気な未来予想なんて、ゴミクズみたいな現実の重さの前では脆くも崩れ去る砂上の楼閣でしかなかった。
そしてそんなゴミクズな現実を作り出している元凶は言うまでもなくクソ親父。
クソ親父という重い鎖がある限り、あたしはこの最悪な現実から逃れることなんてできないし、明るい未来なんて訪れない。
この先も。
ずっと。
あたしがそのことに気づいてしまったからか?
そのことが琥珀に見透かされてしまったからか?
琥珀は今まで出会った誰よりもあたしのことを見てくれて、そして時にあたし以上にあたしの気持ちを理解していたように思う。
だから今起きてしまった現実を引き起こしたのはあたし。
あたし自身の気持ちが引き寄せてしまった現実。
全部、全部あたしのせいなんだ。
でも、これは絶対に避けることができない【運命】なんだろうか。
もしかしたら、もうすこしあたしがうまくやれていたらこうじゃない結末もあったんじゃないだろうか。
琥珀に出会ってからの【運命】。
それを、あたしがもっとしっかりして、選択を間違えるようなことをしなければ。
きっとこうではない未来もあったんじゃないかって思う。
もしもう一度過去をやり直すことができたなら。
絶対にあたしはもっとうまくやる。
幸せな結末は、あたしの手で選ぶことができるはずなんだ。
やり直すことができたなら……
激しい後悔とともに黒くて重たい何かがあたしの中に入り込んできたのがわかってあたしはまぶたを閉じた。
琥珀があたしの名前を呼んでいる。
返事をしようと思っているうちに、少しずつ、その声は遠くなっていった。