運命の日まであと7日【その10】

トワツガイ

エピローグ~運命の日

 ごぼ。
 自分の口元から出た泡の音に意識が戻りかける。
 全身に全く力が入らずほとんど自力で動くことはできないが、まぶたを閉じたままでも強い光を瞳に感じることができた。
 真っ白い世界。
 そこには何もなく、あたしは時間の感覚を失ったまま時々こうして薄く意識を取り戻す。
 運が良ければ誰かの気配を感じることもあった。会話のような声も聞こえたりする。あたしには意味がさっぱりわからない内容ばかりだったが。
 コツ、コツ、コツと硬い石づくりの床をハイヒールのかかとが叩く音がして、あたしのすぐ近くで止まった。
「ミヤマ、今日のこの子の調子はどうだい?」
 その声に奥にいたらしいもう一人の足音が近づいてくる。
「はい。生命兆候(バイタルサイン)は基準範囲に収まっています。ただ意識レベルが時折不規則に高くなることがあるようです。……もって数分くらいのものですが」
「そう。では、この会話も断片的にこの子の耳に届いているかもしれないね」
 声の響きであたしの方をちらりと見てはこの話をしているのが伝わる。
「不思議ですね。いえ、これまで覚醒してきたトリたちはどれも例外ばかりではありますが」
「そうだね。体の傷はもうすっかり回復しているはずなのに、意識だけは深い眠りに入ったままでいる。まるでまだ目覚めたくないと駄々をこねているかのようじゃないか」
「まさか……。自分の意志で覚醒を遅らせているんでしょうか」
「ありえないことじゃない」
 ゆったりと落ち着いた話し方をする方の気配が動いてあたしのすぐ近くに来たのがわかった。そっとあたしの入っている「容れ物」に触れたらしい。
「きっと、まだ醒めたくない長い夢を見ているんだよ。一度目の『生』で起こった出来事の衝撃が強すぎたのか、後悔が大きすぎるのか。その迷いが自分の中でうまく整理しきれずに何度も何度も考え続けては、過去の出来事を自分の中で反芻し続けている。責任感の強い子なんだろうね」
 少し長い間があった。
 それから声の低い方の女性が話しかける。
「過去の出来事を、何度も何度も自分の中の夢として繰り返しているのだとしたら……。このままずっと目覚めない可能性もあるのでは?」
「そうかもしれないね」
「司令は、それでもよいとお考えですか?」
 何か動作をしたようで空気が動いた気配がした。答えはイエスなのかノーなのかは見えないあたしからはわからない。
「周りの意向がどうであっても、この子が自分で決めなければ状況は変わらないよ。この子が夢の中で過去を逡巡し続けている限りはトリとして意識を取り戻すことはない。実際に起こったこと、起こるはずだったこと、起きてほしかったこと、起きてほしくなかったこと……。それを気が済むまで繰り返させてあげるしか、私達にできることはない」
「もし目覚める可能性があるとしたら、何がきっかけになると思いますか?司令」
 コツコツ、とまた硬いハイヒールの音が遠ざかる。
「さあね。過去の思い出を全部捨てて、新しい『生』を始めたいと、心が前を向けるようになった時じゃないかな」
 バサ、と着ている衣を翻しハイヒールの去る音がした。その音のフェイドアウトとともにあたしの意識が深く沈みかけた時、入れ替わるようにブーツのような靴底の音が近づくのが聞こえた。
「おや?今日もここに来たのかい」
「はい。任務が早めに終わりましたので。入ってもよろしいでしょうか」
「もちろんだよ。君は確か、この子と以前に関わりがあったんだろう?話しかけてあげるといい」
「ありがとうございます」
 すれ違ったブーツの音は先程までハイヒールの人がいたところまで近づき、まだそこに残っていた声の低い女性と挨拶を交わした。
「熱心だな。さすが、司令に直接ここに来れるよう直談判をしただけのことはある」
「いえ、私はただ……。この人の、目覚めるためのお手伝いを、と」
「いいさ。ゆっくりと二人で話したいだろう?私は奥のコンピュータールームにいるから、何かあったら言ってくれ」
 そしてもう一人の女性の気配は遠ざかっていった。
 しん、と静寂が訪れた周囲の気配にまぶたの裏の景色が薄暗くなり、あたしはまた眠りの中に落ちかけた。
 あたしの容れ物の前にいる誰だかわからないブーツの人は、しばらく黙って動かぬあたしと向き合っていた。
「もし、あなたが目覚めたら。その時には私ではない、別の人の手を取るのでしょうか」
 つぶやくような、優しい声が聞こえてきた。
「あなたが目を覚まさないのは私のことを許せないからだとしたら。それは仕方のないことかもしれませんね」
 またゴボ、と口に差し込まれた呼吸器から大きな泡が漏れた。
「……今日、私はあなたではない人の手を取ろうとしてみました。とても良い人で、私のことを大切にしてくれて。だけど、次の約束はしませんでした。どうしてでしょうね」
 うとうとと、また眠りの中に入ろうとしていく意識がかろうじて踏みとどまる。
 触れたら割れてしまうような、湖面に張った薄氷(はくひょう)のような細くて薄いあたしの意識。
「もし【運命】というものがあっても、なくても」
 運命。
「私は、いつまででも待ちます。あなたの手を、もう一度取れる日まで」
 伸ばした手があたしの容れ物に触れた。じわり、と温かさが水を通して伝わってくる。
「また来ます。それじゃ、●●●」
 ゴボ、ゴボ、と激しく息が漏れた。
 息苦しさに体をよじらせるとさっきまでピクリとも動かなかった腕が喉元に届き、体につけられていたいくつものチューブがはずみでいくつか外れた。
「どうした!何が起こった」
 まだ開かない目のまま体を必死に動かしていると、強く叩いた腕が容れ物に触れ、脆くもヒビが入ったのを感じた。
 一気に多くの人があたしの周りに押し寄せ、大騒ぎの中抵抗できないあたしの体はどこかに運ばれていった。
 覚醒しきれない意識の中で、先程まであたしの近くにいた硬いハイヒールの音が近づいてこう言ったのが聞こえた。
「おめでとう!さあ、今日が君の新しい【運命】の始まりの日だよ。カラス」

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