第二章 運命の日まであと6日
翌日、あたしはとても早起きをした。
そうしたくてしたわけではなかったけれども、突然に自分の身に起きた奇妙なことを考えるとのんびりといつものように眠っているわけにはいかないんじゃないかと思ってしまったからだ。
しかしかといって今のあたしが早起きをしたところでできることなんてほとんどない。
それはわかっていつつものんきに二度寝をするという気分にもなれず、隣で眠っている妹を起こさないようにそっとキッチンへと抜け出して弁当でも作りはじめることにした。
この冬の季節、隙間風の吹き込むボロアパートのキッチンは決して居心地のよい場所じゃない。
だけども子供のときからずっとここで料理をしてきた自分にとっては、ボロいなりに自分のテリトリーとして感じられる貴重なスペースでもあった。
すっかり使い慣れてすり減った調理器具たちも、あたしにとっては頼りのない相棒のようなものだ。
そういえば先週包丁を研いだばかりだったな、と思い出だして愛用の出刃包丁を窓から差し込む朝日にかざしてみた。
丁寧にムラなく研がれた包丁は振り下ろせば音もしそうなほど美しく怪しい光を宿していた。
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先の予定を待っている時間というのはとても過ぎるのが遅いもので、その日一日は退屈な授業がいつもよりもより退屈に、長く長く感じた。
天気は昨日から雨が降ったり止んだりを繰り返す不安定な空で、分厚い雲がうっすらと室内を肌寒い雰囲気にしている。
ふと一週間前の記憶をたどっていくと本降りが始まるのは昼を過ぎたころで、実際に記憶ぴったりに雨が窓を叩くのを見たあたしは今日もまたきっと記憶通りの出来事が起きていくんだろうと確信を持った。
今日この日に起こること。
それはこの放課後、ピアノルームで琥珀とあたしは初めてのキスをする。
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放課後になってあたしはできるだけ冷静に努めながら荷物をまとめて教室を出た。
ここまでの時間を過ごしてきてわかったことが一つある。あたしは今こうして同じ時間を繰り返してはいるけれども、あたし自身の選択まで強制的に同じくされるわけではないということだ。
授業中先生に当てられたときやクラスメイトに話しかけられたとき意図的に答え方を変えてみたりしたのだが、それによって起こる反応は覚えているものとは少し異なったものだった。
しかし逆に全く同じことをした場合には、当然のように同じ反応をされる。
つまりはこの一週間の行動を覚えているものと同じようにしていけばおそらく最終的に全く同じ結末を迎えてしまうということだろう。
とはいえ、それがわかったとしてもどの程度の行動を変化させていけば最終的な未来を変化させることができるのかはわからない。
昼食の弁当のメニューやノートに使うラインマーカーの色なんかは簡単に変えることができるけれども、そんなことが一週間後の未来に影響を与えてくれるものとは思えない。
ふと、昔読んだ小説で「バタフライ・エフェクト」について書かれていたのを思い出した。
ブラジルで一匹の蝶が羽ばたいたらテキサスで竜巻が起こる、というファンタジー系創作物ではおなじみのやつだ。
もしかしたら昼食のメニューやマーカーの色くらいの変化でも結末を大きく変化させる要素になりえるかもしれない。
そう、どんな可能性だってあるんだ。
そんなことを考えながらもあたしはまっすぐにピアノ室に向かった。
もし本気であの未来を変えたいと思うのであれば、琥珀を巻き込まないために拒絶することが一番確実だ。
琥珀とこれ以上親しくなることは、最悪の結末に最も近づくまっすぐ直線的な一歩だ。
だから決定的に琥珀との関係が深まるこの今日は、間違いなく大きなターニングポイントになると思う。
あたしが今ピアノ室に向かう足を止めてしまえばそれで済む話だ。
まっすぐに家に帰っていつものように荒れた部屋を掃除して、残り物を使って料理を作って妹との時間を過ごそうとすれば、それで運命はきっと大きく変化をしていくはず。
あたしと琥珀の【運命】はその瞬間に途切れる。
コツン、コツンと一歩ずつ進む自分の足音が妙に大きく廊下に響く。
教室棟のある校舎を抜けて、くぐり抜けた渡り廊下の屋根は昼から降り出した雨の続きでパラパラと音が鳴っていた。
特別教室棟に近づくとかすかにピアノの音が聞こえてきた。
扉に手をかけると次にかけられるセリフが自然と頭に浮かんできた。
「来てくれたんですね。待っていました、ありがとう。凛」
あたしはそうしてはいけないと十分にわかっていながら、ゆるんでしまう口元を抑えることができなかった。
*****
「凛、凛。起きてください」
名前を呼ばれた声に何度か瞬きをしてあたしは目を開いた。
琥珀のピアノは相変わらず完璧に調和がとれていて、あたしは「きれいだ」とか「すごいな」というレベルのアホっぽい感想でしか伝えることができない。
その調和はピアノが上手い人ならば誰でも表現することができるものなのか、琥珀だから作り出せるものなのかすらあたしにはわからないのだ。
そして琥珀のピアノをそばで聴いていると、あたしはほぼ確実に眠気を覚えてしまう。
それは決して琥珀の演奏が退屈だからではなく、安心してその時間の流れに身を任せることができるからだと思う。
ピアノの白と黒の鍵盤が完璧な調和で成り立つ、湖面に浮かぶ薄氷のような空気感がそうさせているのだ。
もし眠らずにこの演奏を最後まで聴くことができていたら、と考えなくもなかった。
だけども今日の朝とても早く目が覚めたときから、どんなに抗っても結局あたしはここで目を閉じて、そして琥珀に起こされていたはずだ。
「凛。ずいぶんよく眠っていましたよ」
薄く目を開いたあたしの顔を覗き込むような近くに琥珀はいた。
長いまつ毛はもう数センチ近づけばあたしのと絡み合うほどの距離にあって、あたしが目を覚ましてもその位置から全く後ろに下がろうとしなかった。
こんなに近くで誰かの瞳を見つめたことは今まであっただろうか。
いや、あった。
一週間前のあたしだ。
あたしがゆっくりともう一度目を閉じると、柔らかく少し湿った唇が遠慮がちに重ねられたのがわかった。
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