運命の日まであと7日【その9】

トワツガイ

第八章 運命の日

 病院の狭い付き添いベッドでの目覚めは最悪だった。
 体の節々が痛くて、しかも寒さで体の芯が冷えたのか頭がガンガンする。
 あたしがしばらく頭を抱えるようにして座っていると、病室のベッドで眠っている妹が小さく寝言を囁いた。
 その顔を覗き込んで見ると心なしか昨日よりも穏やかな寝顔をしているようだったが、様子を見に病室を覗いた看護師さんに尋ねてみると強く頭を打ったので目が覚めてもしばらく意識が朦朧としている可能性があるということだった。
 あたしは病院を一旦立ち去る前にできるだけ丁寧に「よろしくお願いします」と深く頭を下げて妹のことをお願いした。
 
 昨日の夜に予想した通り今朝は日が昇り始めるよりも早くからゆっくりと雪が落ちかかってきており、病院を出たあたしの肩口にふらふらとまとわりついては溶けていった。
 あたしは家までの道を歩きながら今日すべきことを丁寧に頭の中に書き出し、何から行うべきかを慎重に検討していった。
 アパートに着いたのはまだかなり早朝の時間帯で、そこにクソ親父がいた気配はなかった。
 大方昨日のあたしとの連絡で今日金が手に入ることがわかったので、それを当て込んで今の持ち金全部使って遊びほうけているんだろう。ムカつかないわけではないが、今のあたしにとってはむしろそうしてくれた方が都合がいい。
 あたしはアパートに入ると妹の入院に必要な衣類や細々とした日用品を丁寧にそろえてカバンに入れた。
 作業をしているときに思いついて何かしらを手紙にして妹のために書き残そうかとも思ったが、いざテーブルに向かってペンを手にしても何も言葉は浮かばなかったのでやめた。
 それから昨日風呂に入りそこねていたことに気づいて丁寧にシャワーを浴び、着替えをしてたまっていた洗濯をした。
 全く空腹感を感じなかったが今日これからのことを考えて残っていたパンとチーズを冷蔵庫から出して切れ端を食べ、それからキッチンのシンク下の収納を開いて包丁を一本抜き出した。使い慣れた出刃包丁をゆっくり薄暗い陽の光にあてて、ほころびや錆がないことを確認する。
 再び家を出てまとめた荷物を届けに病院に向かう途中でいつものバイト先のコンビニがあったので立ち寄ってみた。
 そこには眠そうに朝の清掃と品出しをしている同僚がいたので、短い挨拶とともに「今日で辞めさせてもらう」と店長に伝言を頼んだ。
 そう言われたスタッフは急な申し出に一気に眠気が覚めた様子で色々とあたしに声掛けをしたあと「とりあえず話は預かるけどちょっと保留ね」と言い、タイミング悪く店に入ってきた配送業者の受け取りへと急いだ。
 お世話になった店長や同僚スタッフたちには迷惑をかけるが、これであたしは自分の義務としての連絡はすませたと思った。

 病院にカバンを届けた帰り道にふと思い出して昨晩から切りっぱなしにしていたスマホの電源を入れると、待ち構えていたようにメッセージが数件飛び込んできた。

琥珀:凛。今日は学校に行きますか?もし無理そうなら私の方から先生に連絡しておきますが。

 努めて事務的な口調にしているのか、琥珀は短くいくつかの現実的な手続きをあたしに質問している。
 あたしはその内容をチェックリスト代わりにして考えていくと、一番最後のメッセージで指が止まった。

琥珀:今、どうしていますか?明日、会えますよね。会いたいです。

 その文字を見た瞬間にぐっと胸が詰まって、あたしが一晩かけて固めたはずの決心がぐらつきそうになる。
 いっそ何もかもをぶちまけて、これから自分がしようとしていることの隣に琥珀がいてくれたらどれほどいいだろうかという甘えすら湧き上がってきてしまう。
 だけどもそんなことはできない。
 なぜならこのやり直しをした一週間の総括として、それが絶対に守らなければならない最後の砦であるからだ。
 あたしが変えるべき【運命】があるならば、それはクソ親父との関係を断ち切ること。
 妹にこれ以上危害を加えることがないように、二度と妹の前に姿を現さないようにするためにはあたしがやるしかない。
 ただしそれはやり直しの前に起こったような琥珀に助けてもらう形ではない。
 あたしがあたしの責任で、あたし一人で全てを完結させてやるんだ。
 結果として、妹や琥珀が悲しむことになるかもしれない。
 だけども自分自身のけじめとして、やり直しのチャンスを与えられた意味を考えたらそれ以外の選択肢はないと思った。
 
 *****
 
 クソ親父から連絡が入ったのは昼過ぎだった。

クソ親父:悪い悪い。寝ちゃっててさあ。今からアパート行くんで。ちゃんと金、用意しとけよな。

 画面越しに酒臭い息を感じそうなほど醜悪な言葉の羅列。
 あたしは簡潔にわかった、と返事を打つと狭い六畳間の真ん中で正座をし、精神を鎮めた。
 できるだけ部屋も身辺もきれいに片付けた。もうあたしに失うものなんてない。
 立ち上がると不自然さがないようにキッチンの作業台にまな板を置き、さらにその上に出刃包丁を置いた。
 おぼろげな記憶をたどれば、やり直しをする前のこの場面ではあたしとクソ親父が揉め出したところで玄関の扉が開き、ちょうどその手前に置かれていた包丁を使って琥珀が後ろからクソ親父の首元に一撃を加えたはずだ。
 だからそうならないように包丁の位置は入り口よりも奥側に近く、飛び込んですぐにつかめる位置にないようにしておく必要がある。
 もっとも今回は琥珀にはあたしの家の場所を教えていないわけだし、今日この時間にあたしがクソ親父と会うことも琥珀は知らない。
 逆に言えばもし何か想定外のことが起こった場合にあたしは誰からも助けを得られないということにもなるが、きっとそうはならないだろう。そういう【運命】に違いないと根拠のない確信がある。
 キッチン正面の明り取りの窓を見るとすりガラス越しにも大粒の雪が降っていることがわかる。
 寒さが時間を追うごとに厳しくなってきて、あたしはこれから起こることを考えどうしようもなく胸が苦しくなった。
 一週間前の今日、あたしは「どうしてこうなったんだろう」と考えた。
 他にも何かもっとよい方法があったんじゃないかって激しく後悔した。
 だけど今、前回とは絶対的に違うことが一つある。それはこの【運命】をあたしが自分で選んでいるということだ。
 結果は悲惨なものかもしれない。だけども少なくともあたしはあたしの【運命】を自分で望み、自分で変えるためにこうしている。
 だからこれから起こることは前回とは違う。
 違っていてほしい。
 あたしがそう思って何にともなく空に向かって願いをかけていると、ガチャ、と玄関の扉が開いた。
 
 *****
 
「やめろ!離せ!このクソ野郎!」
 前に経験したのとほぼ同じように、逆上したクソ親父は殴りかかったあたしの体を掴み力任せに突き飛ばした。
 その勢いで近くの戸棚のガラスが割れ、足元にパラパラと破片が舞って散る。
 ぽた、ぽた、と床にうずくまったあたしの手元に血が滴るのが見えて、あたしは殴られた時に口の中を切って出血させられたことがわかった。
 あたしのその様子をニヤニヤと勝ち誇ったように見下ろすクソ親父の顔が見えた。「言うことを聞かないお前が悪い」とまたいつものように人を傷つけ、その傷を人のせいにしている。
「顔を殴りやがって。お前なんか、お前なんか!殺してやる!クソ親父!」
 扉は開かなかった。
 一週間前のときはここで琥珀が飛び込んできて、クソ親父をやった。
 だけどもここで来ないのであれば、やはり【運命】は変化をしてきているんだ。
 血の匂い、雪の寒さ。少しのミスできっと殺されるのはあたし。
 あたしは切れた口の中の奥歯をぐっと噛み締め、次に相手に隙ができたら出刃包丁に飛びつこうと身構えた。
「しかしお前もバカだよなあ」
 クソ親父は言う。
「コンビニだの日払いだの。そんなコスパの悪い仕事ばっかしてるから金が貯まらねえんだよ。わかってんだろ?お前も女ならさあ」
 激しい怒りの感情が湧き上がってくる。それだけは言われたくなかった、最後の侮辱。
「今日中にどうしても金が必要なんだよ。ならちょっとこれからついてきてほしいところがあんだ……」
 ブシュ。
 あたしの真正面に立っていたクソ親父の首筋から斜めに赤い柱が立った。
 つまらないB級ホラー映画のモブキャラの死亡シーンのように、シューと吹き出した血に喉元をおさえる暇もなくよろよろと半歩前に出てクソ親父は前側に倒れた。
 流れ出るどす黒い液体が床に侵食していくのに反射的に腰を下げながら、あたしはクソ親父の背後にいる人物を見上げた。
 琥珀だった。
 この時の表情をどう表現したらいいんだろう。
 まるで……。いや、どんな例えもあてはまらない。
 これは「ゴミのような人間を決意を持って殺すことを決めた温厚な人間の顔」だ。
 はっ、と気がついてあたしは自分が用意していたはずの包丁を見た。それはまだきちんとまな板の上に置かれている。
 おかしいと思って琥珀の手元を見るとそこにも包丁があった。使い慣れ親しんできた包丁と寸分違わぬ同じ刃物が。
「凛、あなたは刺さないんですか?」
 冷静な琥珀の声にはっと我に返ったあたしは台所の包丁を予定通り手に取り、転がったクソ親父のまだ汚れていない腹を蹴り上げて仰向けにさせ、その胸に思い切り鋭い刃を突き立てた。
 既にクソ親父の体には全く力がなく、あたしが刃を立てるよりも前に口の中の血は溢れ出てしまっていた。
 はあはあ、と疲れよりも興奮で荒くなった息をなんとか整えると、あたしは琥珀に向き直り、その手に握られている包丁を取ろうと手を伸ばした。
「こうして、この人を切るのはもう何回目でしょう」
「え?琥珀、何を言って……?」
 琥珀は自分で持っていた包丁の刃を指でなぞって確認し、ふう、と流しの中に置く。
 あたしはその妙に落ち着いた琥珀の様子と、無様に半笑いの表情を残したまま床に転がるクソ親父と、これまで真剣にどうしようかと悩み決死の覚悟まで決めた自分のことを同時に思い巡らせて、そこでなんだか滑稽さに自然に口元から笑いが出てきてしまった。
「はは……あ、あははははは」
「凛、私は……」
「はは……!そうか、最初からこうしておけばよかったってことか。なあ、琥珀」
 あたしがそう言ったと同時に周囲の景色は色彩をなくし、あたしと琥珀の二人だけを残してあとは真っ暗な世界へと変わる。
 
 *****

「あんた、最初から全部わかってたのか?」
 あたしの疑問に琥珀は首を横に振る。
「いえ。わかりません。わかっていたのはあなただけです、凛」
 琥珀はあたしに嘘はつかない。
 だからきっとごまかしではなく、本当にこの一週間に経験した琥珀は本心の琥珀だったのだろう。
 あたしは【運命】というのは何かの選択によって紡がれていくものであり、あたしが間違った選択さえしなければよい結果を導くことができるものだと思っていたのだけれども。
 本当はそうではなく、あたしにとっての【運命】は最初からそこにあって、そのゴールである事実に向かってどう考えていたかということだけが問われていたんだろう。少なくとも、今あたしがいるこの場所では。
 あたしがじっと目の前の琥珀を見ると、ほんの少しぼんやりと輪郭を失い初めているようにも感じた。
「一つ、大事なことを聞きたい」
「ええ。何でも聞いてください」
「もしあたしが、この【運命】を素直に受け止めたら。それでこの世界は終わりになるのか?」
 琥珀は少し考える仕草をしてから首を横に振った。
「終わりにはなります。でも、あなたの【運命】はこれで終わりではないでしょう?」
 言われてみればそうだ。あたしにはまだこのあとの記憶がある。
 まだ果たされていなかった琥珀との約束が。
「凛、海。行きたいですか?」
 琥珀の提案にあたしは自分の考えが正しかったことを悟った。
「そうだな。久しぶりに、あんたと見に行きたい」
 寒くて真っ白い、2つの足跡だけが残るあの海の景色を。
「海に行けば、もう一度あんたに会えるってこと……なんだよな?」
「ええ、ありがとうございます。ですが」
「何か条件でもあるのか?」
「いえ。きっと凛なら大丈夫でしょう。私は、凛のことを信じていますから」
 あたしが琥珀に手を伸ばすと、再び世界に色が戻り始めた。
 ゆっくりと、寒さがあたしたちを包みだし、アパートを出ると降りしきる雪が町並みを白く染めていた。
 駅へと足先を向けると、自然に伸ばしたお互いの手が繋がれる。
 琥珀の手の温かさを褒めると、嬉しそうに琥珀は笑ってあたしを見つめた。
「待っていますね。凛」
 長く長く一緒に歩いて、冬の海の景色がやっと見えてきた。
 白い砂浜を波打ち際に向かって歩く途中で、不意にあたしの名前を呼ぶ琥珀の声が風の中に流れ。
 繋いでいた手がゆっくりと離れていった。

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